序にかえて――京都大学における廃寮問題の概要

資料集を公刊する会代表 山本英司

京都大学の学生寄宿舎は、1897年の大学創立と同時に設けられている。当初は本部事務室の一角に設置されていたが、翌年、1889年建築の第三高等学校の寄宿舎を譲り受ける。現在の本部構内、附属図書館の北東に位置していた。そして1913年、その材木を利用して近衛の地に寄宿舎が移転される。これが現在の吉田寮である。その後、1959・60年には1920・23年建築の京都織物の女工の寄宿舎が京都大学の寄宿舎に転用され、従来の寄宿舎が吉田東寮、新しい寄宿舎が吉田西寮と呼ばれるようになる。この他、1959年・60年開設の女子寮、1965年開設の室町寮、1965・66年開設の熊野寮が現在も存在している。

京都大学においては、学寮の運営は早くから寮生の自治に委ねられ、入寮選考も一時期を除いて寮生が実質的な決定権を有していた。それでも形式上は大学当局の監督の下にあったが、吉田寮にあっては1968年度の補充入寮募集より自主入寮選考が行われるようになる。そして、全国的な大学闘争の時代を経て、1971年、吉田寮・熊野寮自治会と淺井健次郎学生部長との間に「入退寮権は一切寮委員会が保持・行使すべきだと考える」、「新入寮生全員の氏名を選考概評とともに「京大新聞」紙上に発表する」 などの確認がなされるに至る(71年確約)。

だが、学寮における自主管理は、1978年、沢田敏男学生部長の就任による団交拒否・確約破棄によって攻撃に晒されることになる。1979年には学寮の運営に関して会計検査院により岡本道雄総長宛に不正常指摘がなされ、政府・文部省の学寮政策(新々寮政策)が京都大学の自治に直接介入してくるようになる。これに沢田敏男総長も積極的に協力していく。

大学当局は、寮運営の「正常化」の名の下に、在寮者確認並びに寄宿料及び水光熱費の納付を寮自治会に、やがて寮生個人に要求する。これに対して寮自治会は、寮自治会の入退寮権を侵害し学寮の厚生施設としての意義に反すると批判し、応じようとしなかった。そこで大学当局は現寮での「正常化」をあきらめ、現寮自治会との人的つながりを断った新寮(新々寮)建設によって事態の解決を図ろうとする。そして1982年12月14日、「正常化」を理由とすることに反対する評議員の存在のために、「老朽化」を表立っての唯一の理由として、大学の最高機関とされる評議会において、「吉田寮の在寮期限を昭和61年3月31とする」、すなわち、吉田寮を1986年3月31日をもって廃寮とすることが決定されたのであった。

これに対しては水光熱費の寮生負担の問題(負担区分問題)とあわせて全学的な反対運動が巻き起こり、翌1983年1〜2月には全学団交戦が行われ、学生部長を含む多数の部局長・評議員が自己批判をなすに至った。これにより、1983年度の吉田寮入寮募集停止、熊野寮への在寮期限設定は阻止された。しかしながら、学生部長は自らの確約を破棄して団交の場から逃亡し、会計検査院に対する抗議行動への参加者らの逮捕(5・18弾圧。後、起訴・有罪)もあって運動は沈滞し、1984年、各寮自治会は負担区分を受け入れるに至る。

1986年3月31日の「在寮期限」を前に、寮問題が再び全学の焦点となる。吉田寮自治会は新寮を建てさせてそれに移行するとの方針であったが、新寮建設が当面ありえない現状において、「在寮期限」以降も自主入寮選考を継続して住み抜くことを決意する。また、あるいは吉田寮自治会と共闘し、あるいは吉田寮自治会とは独自の立場で、様々な団体が吉田寮問題に関与していく。「在寮期限」到来直前、再び全学団交戦が行われ、2〜3月にかけて、文学部長団交・農学部長折衝・学生部長団交予備折衝においてそれぞれ確認がなされるに至った。西島安則総長の意向もあり、「在寮期限」到来をもって直ちに寮生を叩き出すことはないとの方針が確認される。

1986年4月1日、「在寮期限」到来。1986年度吉田寮入寮募集停止、炊フ2名の配置転換による吉田寮食堂休業、吉田寮守衛1名の室町寮への配置転換がなされ、大学当局は「在寮期限執行中」と説明する。しかし、吉田寮自治会は自主入寮募集を行い、自主管理を継続していく。

ところで1986年3月に「在寮期限」が設定されたのは、1982年12月の「在寮期限」設定時における1回生が最短就学年限である4回生を終えるまでは在寮を保証するとの理由からであった。しかし「在寮期限」設定と同時に実施されるはずであった入寮募集停止が阻止されたため、入寮届を堤出しさえすれば1985年度までの入寮は大学当局も認めざるを得なかった。そこで、次なる焦点は1985年度の1回生が最短修業年限を迎える1989年3月であった。

1988年8月、老朽化の著しいため既に居住放棄されていた吉田西寮Ⅳ棟が吉田寮自治会との合意の上で撤去される。この時、住友則彦寮小委員長は河合隼雄学生部長の了承の下、吉田寮自治会と話し合う、吉田寮の補修を行いその抜本的解決策としての新寮建設に努めるとの確認を行う。

そして同年11月から翌1989年2月にかけて計5回の学生部長団交が行われ、吉田寮自治会と大学当局との間で合意が成立するに至る。吉田寮自治会は在寮者名簿の提出・寄宿料の納付に応じる、大学当局は吉田東寮の補修を行う、吉田西寮は撤去しその代替スペースとしてプレハブを設置する、入寮募集停止を解除する、これらのことをもって「在寮期限の執行完了」とする、というのが解決案であった。この解決案は1989年1月24日の評議会で了承される。

1989年3月、併行してプレハブの建設がなされる中、吉田西寮が撤去される。以後、吉田東寮が吉田寮と呼ばれるようになる。4月14日、最初の在寮者名簿及び寄宿料の提出がなされる。それを受けて18日評議会は「在寮期限の執行完了」を了承する。ここに「在寮期限」問題は終わりを告げた。なお、熊野寮問題に関しては、1991年3月19日、熊野寮自治会と大学当局との間に確認がなされた。

「在寮期限」問題は、吉田寮が経験した最大の出来事であった。その経験は吉田寮自治会による毎年の入寮案内で繰り返され、新入寮生に対しても伝えられている。しかしながら、当事者のほとんどが退寮した今、伝えられる内容はもはや、経験者でない者が伝えられたことをそのまま伝えていくだけになっている。そしてやがては経験が風化していくことにもなろう。

そうした危惧の中、奇しくも「在寮期限」決定10周年の年に1次資料により「在寮期限」の経験を残していくために本資料集が企画された。そして吉田寮開寮80週年を記念して第1集の刊行が予定された。諸般の事情により刊行が遅れることとなったが、年次計画により第2集以降も順次刊行される予定である。

最後にこの場を借りて、本第1集刊行へ向けて協力して下さった多くの方々にお礼を申し上げ、読者を含む関係者の皆様に今後のご協力をお願いする次第である。