今年1月14日、学生部長加藤は、’86年3月31日の「在寮期限」到来時に、現吉田寮生を追い出し、現在の吉田寮とは何の関係もない新入寮生向けの寮を建てると表明した1。
’82年12月14日、評議会で決定された「在寮期限」は、「老朽化」を唯一の理由としたものであり、当然吉田寮の建替を前提としていたものであることは当時の評議員の証言により明らかであった2。そもそも「在寮期限」自体が吉田寮生との合意なく一方的に、しかも機動隊を動員してまで決定した全く不当な決定である。そしてその上に学生部は「誰が」「いつ」「どこで」決定したか全くわからない決定によって吉田寮の「建替」を「廃寮」とすりかえたのである。
吉田寮自治会と吉田寮生の生活は、今まさに破壊されようとしている。そして、学生部は、吉田寮の「在寮期限」―廃寮を突破口に、京大の4大自治寮を一挙に新々寮化しようとしている。我々はこうした全く不当な「在寮期限」と1・14加藤回答を決して許すことはできない。
戦後間もない時期、ようやく学園に戻ることができた学生達は、あらゆる種類の欠乏と直面する中、実力選挙闘争によって兵舎・倉庫などを学寮として使用しはじめ、戦前からの老朽寮については、施設拡充・予算獲得闘争を闘った。こうして発足した戦後の学寮は、管理体制も全国一律ではなく、各大学当局の予算や寄付などによって、その経費の相当分が負担された。当時の混乱した状況下では、文部省には全国の学寮政策を統括していく力量がなかったのである。
ところが、’50年代半ばから’60年代にかけての高度経済成長政策に伴い、文部省は、大学を安定して高級労働力を供給する労働力再生産の場と位置付け、学寮に対する管理・統制の方針を固めた。’62年の「学徒厚生審議会答申」および、それに続く’64年に出された2つの文部省通達「学寮における経費の負担区分について」と「○○大学学寮管理運営規則」3がそれである。その内容とは、①管理運営の責任者を学生部長とし、入寮選考・入寮許可・退寮処分その他寮運営の要は学生部長に権限がある。②学寮に関わる経費を「公的区分」・「私的区分」に分け、「私的区分」を寮生が負担する。③自主的な共同生活を通じて人間形成に資する課外教育施設としての役割を持つ、というものであった。しかし、こうした動きに対する粘り強い反撃が寮生によって闘われ、文部省の攻撃も形骸化していった。
’60年代後半に入ると、高度成長のもたらす諸矛盾が顕在化する中、ベトナム、沖縄、安保などの闘争が、学園闘争と有機的に結合して、教育・社会のあり方を問い直す運動として、我国の学園で爆博した。こうした学園闘争の高揚の中で文部省は、「学内教育秩序の早急な確立」の必要性にかられ、’69年通達4によって「警察当局と緊密な連絡をとり、学内秩序を確保するため積極的に努力5」する様指導する一方、学寮に対しても、’71年の中教審答申6で「学生集団の特殊な意識にもとづく自治活動が学寮の運営に持ち込まれて、ことごとに大学の管理方針と対立する7。」「今日では8多くの学寮は、学生にとって教育的に有意義なものでないどころか9さまざまな紛争の根源地とさえみられるような不幸な状態にある。」と規定した。ここに至って文部省の学寮政策が大きく変更され’64年当時の学寮の位置づけにあった共同生活による人間形成という教育的意義<体制の枠内での自主性・共同性>すら放棄されることになった。これ以後、文部省は筑波大学に象徴される徹底した学生管理強化、意思決定権の集中(従来の教授会自治の形骸化)により物言わぬ従順な学生を作る政策を進めていく。
具体的に見ていくと、文部省が認める学寮の条件に「新規格寮(新々寮)4条件」と呼ばれるものが。すなわち、1.入退寮権を大学が持ち、2.負担区分全面適用、3.食堂廃止、4.全室個室、の4条件である。これは、安価に生活できる学寮の厚生施設としての意義を放棄し、寮生の共同空間を破壊することによって、寮生間の自由なコミュニケーションを否定し、個々人を分断管理するものであると同時に、大学、社会に対して批判的な者を恣意的に退寮させるといった、経済的弱者を切り捨てた上での徹底した分断管理を狙ったものである。
こうした文部省=大学当局の攻撃はサークルの管理強化にも顕著にあらわれている。北海道大学では、’79年4月に文連会館が火災でその2/3を消失した際、自家発電で活動を続けていたサークルを8月の機動隊導入によって一方的に撤去した。学生部は一方的な新サークル棟計画を発表し、反対運動を続ける文連を非公認化、’81年6月には新サークルを開館させた。さらに当局は、残る2つのサークル棟にも攻撃をかけ、同じく’81年8月には撤去してしまった。
新サークル棟は、原則として1ルーム2サークル制をとり、使用時間が以前に比べて著しく制限され、部屋の鍵は守衛が管理し、サークル使用者は持てない。
更に問題なのは、全員の名簿提出が公認の条件とされ、公認サークル以外は新サークル棟へ入ることを許されない。全員名簿提出が就職差別、警察の不当捜査、サークル管理強化の根拠となるとして学生側が拒否すると、名簿提出拒否サークルの非公認化を決定した。これは、実質的に、大学に批判的なサークルの追放を意味するものであり、露骨な管理強化攻撃であるといえる。
文部省の学寮政策は、もちろん京大にとっても無縁ではあり得なかった。’74年沢田学生部長(現総長)が就任、一方的に「団交はしない」「確約については是々非々で考える」宣言し、それまでの団交と確約による寮の運営体制をくつがえした。
’79年4月、会計検査院が来学。9月には、会計検査委員が岡本総長宛に文書10を送付、寮が「不法占拠状態」であると一方的に断定し、文部完了の寮への立ち入りを認めさせようとした。総長は会計検査院への回答11で、寮の管理の「正常化」を約束した。
その手始めとして、12月寮生が熊野寮炊フの後任補充を求めて、学生部に追及行動を行った際、当局は機動隊を導入、氏名が明らかになっていた3名の熊野寮生を逮捕させる挙に出た12。
’81年には学生部は、大阪大学の例にならって、吉田寮熊野寮の入寮募集停止を策動する。ところが、あまりに露骨な廃寮政策に反対する部局も多く、失敗に終わった。このため、学生部が廃寮方式の代案として考えだされたのが「在寮期限」であった。
’82年10月、北川学生部長は、「本学の学寮問題について」という文書13で、廃寮化の基本方針として、吉田寮熊野寮への「在寮期限」設定と学寮の管理「正常化」をうちだした。12月3日及び4日、学生部委員会は吉田寮の「在寮期限」方針を評議会へ提出することを決定、7日は部局長会議で了承され、12月14日評議会で「吉田寮の在寮期限を’86年3月31日とする」旨を決定した。当日の朝、寮生・学生が「在寮期限」決定を実力阻止するため時計台へ駆けつけるのを、多数の学生部時計台職員を動員して妨害し、2階から数名の学生を突き落とし、骨折者まで出る騒ぎの中、わずか30分の審議で了承させた。
これに対して、寮生・学生は’83年1月から2月にかけて全学団交戦を展開し、教養、文、理、農の各学部長は「『在寮期限』を話し合いなく一方的に決めたのは不当」「『在寮期限』の実質化は寮生との合意のうえで」など確認した。
ところが、神野学生部長は2月3日付文書14で「新寮は文部省規格によるもの」「然るべき管理運営ができない新寮は本学には要らない」と表明。「在寮期限」が実は「正常化」と新々寮化のためであることを明らかにした。
2月7日の団交において、神野学生部長はこの文書を撤回し、「負担区分は寮自治会との話し合いによる合意が得られるまでは請求しない15」と確約。しかし、2月14日に学生部長はこの確約を破棄し、3月から4寮自治会に負担区分を一方的に請求し始めた。
83年4月、会計検査院来学。寮生、学生は会計検査が負担区分、さらには廃寮化を正当化する役割を持つことを見抜き、15日に大学当局と会計検査院に対して抗議行動を行った。ところが、5月18日総長、吉田寮熊野寮に数百名の機動隊が乱入、15日の時計台抗議行動を「建造物侵入」とデッチ上げ、3名を不当逮捕した。その日の昼、抗議のため学生部棟に入ったデモ隊に、またもや機動隊が襲いかかり、2名を「建造物侵入」で、1名を「公務執行妨害」で不当逮捕した。警察権力はその後も執拗に事後弾圧を行い、計8名を不当逮捕し、うち5名を起訴した16。
この様な弾圧と平行して大学当局は、83年12月ごろより、寮食堂炊フの配転を恫喝に、あるいは寮食堂内設備改善サボタージュ後任炊フ不補充によって炊フの労働強化、労働条件劣悪化を強いることによって負担区分支払いを要求してきた。吉田、熊野、女子の3寮は、やむをえず、熊野寮食堂の設備改善を条件に、84年2月から負担区分の支払いを開始し17、室町寮もその後支払いを始めた。
5.18弾圧、公判、1.24判決への続く一連の弾圧は、何よりもまず、司法権力を使って斗う学生の主体を消耗させ、屈服させることを狙ったものであったと同時に、時計台へはいること自体「建造物侵入」に、学内に乱入し、学友に暴行を加える警察権力に抗議することを「公務執行妨害」に仕立て上げることによって、学内のあらゆる抗議行動を警察を導入して弾圧するという前例をつくり上げ、合法化しようとする狙いがあった。
78年、79年に会計検査院は、全国の自治寮をそのチェックの対象とした。このとき、会計検査院の「視察」を受け入れた寮(小樽商大智明寮など)は、厚生施設として費用の大部分をを大学が負担していることを「不当支出」とされ、文部省レベルの決定によって廃寮化されていった。会計検査院は文部省の廃寮政策の実施をうながし、あるいは「お墨つき」を与える機関として機能していたのである。我々の、そうした背景をとらえた、会計検査院と当局の姿勢の不当性を抗議するために、以前からの慣例通り、時計台の2階へ上がり抗議文を読み上げるのにとどめた行為を「建造物侵入」とデッチ上げたのである。
また、5月18日の学友3名不当逮捕に抗議して、デモ隊が学生部棟2階へ入るや否や、学生部職員は5つの鉄扉を閉じてデモ隊の退路を断ち、さらに機動隊を導入して逮捕させるといった、あらかじめ学生部と警察との間で綿密な打ち合わせがあったとしか考えられない恐るべき連携プレーで弾圧した。京大当局は、78年以来この様に警察権力を使っての弾圧を日々恒常化してきたのである。
1.24判決においては、「そもそも寮生らが学生部長と集団交渉を持ち、寮生らによる学寮の自主管理を確約させたこと自体に問題が存在するといわなければならない18」として学生の自治活動、自主管理を真正面から否定した。
こうした判決は「国有財産としての寮」「法令に基づく当局の管理責任」「行政内規則にそった管理運営」といった図式だけを根拠に寮の諸権利の必要性と合理性を一切無視したものである。そしてこの判決は、ひいては学生全体の諸権利を否定する学内治安管理強化の一翼を担ったものであるといえる。
こうした情勢の中で出された1.14加藤回答19は、「『在寮期限』は評議会で決定済のことである。新々寮は新入生のための寮である」として、文部省、京大当局の狙う新々寮化とは、建物の構造を変えることだけを目標にしたものではなく、現寮生と新寮生の間に断絶をつくることによって、寮自治、自主管理の空間を徹底的に解体することを目標にしたものであることを明らかにした。そして吉田寮自治会の解体を突破口に、それに続く熊野寮自治会をはじめ他の3寮の自治会の解体、各学部自治会の解体をなしきり、最終的には西部、近衛地区のサークルボックスをも再編して、学生の自由な自主的創造空間を破壊することによって、モノ言はぬ従順な学生づくり、学内治安管理強化を徹底させようとしている。我々は、吉田寮の廃寮化を京大の治安管理強化政策の一環として位置づけ、これを粉砕する斗いをつくり上げなければならない。
以上述べて来たような学内全体にわたる治安管理強化を打ち破るためには、我々も全学的な団結=共斗をもって斗わなければならない。すなわち、吉田・熊野・女子・室町寮の4寮がこれまで以上の結束を固めると共に、各学部自治会との共斗を一層深め、自主的創造的サークル活動を模索する中で、学内管理強化を撃っていく運動、学生部京大当局を包囲する陣営を構築していこう。
第1に、京大4自治寮の解体を狙う吉田寮の「在寮期限」の不当性を全学にアピールする中、学生部を包囲し、「在期」を粉砕していく斗いをすすめよう。
第2に、吉田寮の廃寮を許さず、吉田寮の建て替え=新自治寮を獲得していこう。
第3に、吉田寮の廃寮が、サークルBoxの取り壊し・建替えに伴う様々な使用規制、立看板の撤去、夜間ロックアウト、単位制強化等の学内管理教官の一環であることを確認し、寮生以外の学生との更なる共斗を追求していこう。
第4に、吉田寮の廃寮をステップとした学内管理強化を粉砕していく陣営を各学部での、「在期」決定時および現在の評議員の追及によって構築していこう。
第5に、6月4日から開始した吉田寮の3項目要求署名20を、集会終了後加藤学生部長に叩きつけていこう。
集会終了後、デモに移ります。
吉田寮自治会による1月9日付の要求書に対する回答(京大学厚寮第51号 昭和60年1月14日、京都大学学生部長 加藤幹太、本資料集に収録)を参照のこと。↩
例えば、『京都大学新聞』第1924号(1985年2月1日)の「当時、評議員であった浅井健次郎教授の話」などを参照のこと。↩
いずれの通達も巻末の用語一覧を参照のこと。↩
各国立私立大学長宛依名通達「大学内における正常な秩序の維持について」(文大生第267号 昭和44年4月21日、文部事務次官)のこと。↩
該当文献には、これに続けて「すみやかに適切な措置を講ずるよう」の文言がある。↩
中央教育審議会答申「今後における学校教育の総合的な拡充整備のための基本的施策について」(1971年6月11日)のこと。↩
該当文献では、ここで文が切れてはいないので「。」は来ない。↩
該当文献には、これに続けて「、」がある。↩
該当文献には、これに続けて「、」がある。↩
京都大学長岡本道雄宛「実地検査の結果について」(542第279号 昭和54年9月14日、会計検査院事務総局第2局長 藤井健太郎)のこと。↩
会計検査院事務局第2局長藤井健太郎宛「実地検査の結果について」(主法第209号 昭和54年10月27日、京都大学総長 岡本道雄)のこと。↩
巻末の用語一覧の「12・15弾圧」を参照のこと。↩
学生部長名全学公開文書。↩
おそらく1983年2月3日に全学に配布されたと思われる1982年12月付の学生部長名全学公開文書「学寮問題について全学の皆さんにうったえる」(京都大学学生部長 神野博)のこと。なお、以下の鉤括弧内は要旨である。↩
要旨。↩
巻末の用語一覧の「5・18弾圧」を参照のこと。↩
熊野寮のみ1月分から支払い開始。↩
要旨。↩
1月9日付の吉田寮自治会の要求書(本資料集に収録)に対する回答(京大学厚寮第51号 昭和60年1月14日、京都大学学生部長 加藤幹太、本資料集に収録)のこと。なお、以下の鉤括弧内は要旨である。↩
巻末の用語一覧を参照のこと。↩