当局にとって決戦が爆発すれば、まず敗北は確実である。
京大学生がMo.が、’69年1月を前後して、寮問題を一つのテコとして、大爆発し、千単位、万単位の学生が動き、当局を包囲して、寮斗争・学生運動の圧倒的勝利を納めた3ことを見れば、明らかである。
「新寮」は「在期」決戦をやらせない為のエサである。
なによりも悪質なことには、「在期」によって恫喝し、うき足立った者を、「在期」決戦から引き離し、「新寮」というエサをもち出してここに釣り上げて、「新寮獲得斗争」にすりかえてしまおうという筋書きがあるのである。
そもそも、「在期」=吉田寮廃寮を事実として受け入れたところから、「新寮獲得」などという話が、ふってわいたのである。「在期」の前に屈服した者に対して、当局があたかも寮生との「話し合い」で寮建設をすすめるかのようなポーズを取り、寮生を籠絡して、「在期」決戦を不発に終わらせるのが目的である。その後には、当局は意のままに新々寮建設がすすめられる。
なぜなら、寮生自らが、自治破壊―戦争政治と対決し、「在期」を粉砕する斗いに起ち、弾圧に抗して斗う主体たり得ないのならば、ここで出て来る「新寮獲得」は、単に、吉田寮生の「もの取り要求」でしかなく、全京大生の主体的決起は決して克ち取れない。せいぜい、ささやかな同情をあつめるだけだ。
「新寮獲得」をそれとしてかかげるかぎり、吉田寮生の孤軍奮闘むなしく、尻すぼみにMo.は収束し、決戦はなく、自治寮をみすみす潰してしまうことになる。
全学総決起は、全京大生に等しく、主体的判断が問われ、自らの問題となったときのみうまれるのである。
吉田寮方針は、中ソネの戦争政治と対決して、吉田「在期」決戦に起ち、吉田寮自治を防衛する斗いから逃亡している。
「在期」の恫喝と、決戦の重圧に屈し、うちひしがれ、これとの対決を回避し、斗争を放棄してしまったのである。自治寮の防衛を投げ出した吉田寮方針は、もはや、寮斗争ではない。
吉田寮方針は、自治寮防衛を、投げ出していることを姑息にも隠ぺいする為に、当局の新々寮化プランにのりかかって、当局といちゃつき、「話し合う」ことを寮斗争と称している。全くのペテンだ!
「新寮獲得」は、まさに「在期」決戦から逃亡するための口実以外のなにものでもない。
吉田寮方針は、「新寮」の必要性の根拠を「在期」に置いている。「在期」に既に完全にまいってしまっている為に、それが中ソネのすさまじい戦争政治であることを、百も承知でありがながら、それを受け入れ、そこを根拠に「新寮獲得」は言うはめになっている。
自治防衛を「在期」決戦から逃亡して放棄しているから、吉田寮方針の言う「新寮」は、国家の学生支配の新々寮4条件4を完全粉砕する展望をを最初から喪失し、新々寮の枠での、条件斗争を公言してはばからない。
今日、「埋文試掘」が、新々寮プランそのものと知りながら、受け入れ、自治を売り渡してでも、「新寮」への移行をはかろうともがいている。
「在期」決戦の爆発こそ、全京大生の未来を切り拓く唯一の道である。国家の学生支配と対決する決戦である。
ところが、吉田寮の逃亡方針は、全京大生の決起を裏切り、全京大生を中ソネ戦争政治の前にさし出し、それによって自分だけ何とか生きのびようとする、卑劣極まりないものだ。
国―当局が用意した「新寮」というエサに喰いつき、当局の自治破壊、学生支配に、全面的に協力するものである。
1985年7月27日に吉田寮西寮大広間で行われた四寮会議(女子料は急用のため欠席したため、実質的には吉田寮・熊野寮・室町寮の三寮会議)において熊野寮自治会側より提出されたレジュメ。この場には、吉田寮自治会よりレジュメ「“禍”を転じて福と為せ!」(本資料集に収録)も提出された。会議の経緯及びその後については、本資料集において「“禍”を転じて福と為せ!」の末尾に収録した《補遺》を参照のこと。↩
原資料には、「熊野寮―常任C書記局」とある。↩
1969年1月16日、寮闘争委員会による学生部棟封鎖によって京大闘争は開始され、様々な経過を経た後、個別寮問題に関しては、71年確約(巻末の用語一覧を参照のこと)という形で勝利を収めた。↩
巻末の用語一覧を参照のこと。↩