1985年9月26日
在寮期限まであと186日
吉田寮自治会の新寮建設のワンステップ―埋文調査をめぐる、この夏の経過については、『四項目要求に注目してくれ!』のビラ1で触れたように、熊野寮自治会常任委員会の諸君が調査を実力で阻止し、そのため調査は中止され、新寮計画は予算審議もろともストップし完全に宙に浮いてしまう結果となった。そして現在もその状態に変わりはない。
そして、吉田寮自治会は9月開講以来の長い沈黙をようやく破って、21日に初めて先のビラを配布し、「四項目」を朝尾学生部長に要求することをもって動き始めたわけである。しかし注意しておきたいのは、吉田寮自治会の「新自治寮獲得!在期実質化阻止!」の方針が、この夏の事態で何ら揺らぐものではないこと、そして「四項目要求」は、項目を見てもわかる通り、6月の「三項目要求2」署名運動や7月4日230人集会3の発展―延長線上に登場したものであり、方針を転換して出されたものではない、ということだ。ただ、その提起が遅れたのは、埋文調査の8月中止を考慮に入れて、秋からどう動き始めるのか、検討に時間がかかってしまったからである。われわれはこの遅れを今後の実践を通じて克服していく。
さてえこの遅れを生じせしめた、吉田寮自治会と熊野寮自治会常任委員会の、考え方の違いは、どこにあるのか。
熊野寮常任委員会は、「在寮期限」を中曽根戦争政治の一環としてとらえ、「在期」設定が反戦闘争の大きな攻防点であるとして、在期決戦を一連の中曽根妥当の闘いのなかで闘わなければならない、と主張する。
一方、吉田寮自治会では、「在寮期限」についてこうとらえる。
京大当局―学生部は、そもそも、82年12月14日の「在寮期限評議会決定」を突破口に、86年3月31日までに、現存する吉田寮の「正常化」(水光熱費年間二百十万円の寮生へのおしつけ、吉田寮食堂の閉鎖、入寮選考など入退寮に関する事務全ての剥奪)をなしきり、吉田寮自治会の保持している既得権を根こそぎ奪ったうえで、ボロボロになった寮生を86年3月31日に、「決定」通り追い出す。そして現吉田寮と全く縁のない、文部省お気に入りの新規格寮(俗にいう「新新寮」)を京大に建てる――このような恐ろしいことを目論んでいた。
しかし、学生部の企図は、「在寮期限」の評議会決定だけでその実行を保証できるものだったのか、否、そうではない。実は、「在寮期限」の実行を保証するため、学生部は吉田寮の入寮募集停止措置を決定しようとしていたのである。つまり、吉田寮に学生が入寮できないようにして、「在寮期限」」到来時には数十人しか在寮していない状態にする。わずか数十人の“わからずや”が在寮するのみならば、阪大の寮潰し4のように「不法占拠」を理由に不動産明け渡し仮処分を、裁判所と警察の力を借りて執行し、簡単に寮生を追い出せる!と学生部は踏んでいたのである。
しかし、歴史はそうは流れなかった。83年1月2日にかけて四寮自治会による学生部長団交や、全学自治会同学会による、C・L・S・A学部長団交などが立て続けに起こり、「在期」不当決定反対の声を多くの学生があげた。そのため、大学当局―学生部は、「在寮期限」実行の保証としての入寮募集停止措置に踏みきれなくなってしまった。このことが、「在寮期限」到来時に、吉田寮に、140人もの寮生を残してしまう事態を生じさせた。この事態は、学生部を大いに悩ませている。考えてみたまえ、140人もの寮生を、桜のつぼみのまだ硬い3月の寒空の下、強硬的に追い出すのは不可能とみるのが自然であろう。われわれ吉田寮生も“戦闘的楽観主義の旗”を掲げて、一切転居先を準備しないことをここに宣言しておこう!
86年3月31日の「在寮期限」到来時に、学生部が「評議会決定」を頑なに運用して、吉田寮生を暴力的に追い出すことが、これまでの運動の成果によって不可能になっている、というわれわれ吉田寮自治会の分析は、5月4日・7月18日及び30日の三回にわたって武内章学生部委員(当時)が書いた文書5によって裏付けられている。
すなわち、最早、86年3月31日に吉田寮生を暴力的に叩き出すか否かは、われわれ吉田寮自治会と大学当局との攻防点ではなくなっている、と結論づけられる。では、どこが今問題なのか。
それは、「在寮期限」以降、「在寮期限」の存在を口実に、吉田寮の入寮募集を停止して、吉田寮生の逓減をはかること。また同様に、炊事人や守衛、事務員などの、吉田寮内に勤務する職員をひきあげること。吉田寮の補修を一切サボタージュして、エントロピーの増大するにまかせて寮を自然崩壊に追い込むこと。以上の三点を通じて、現吉田寮自治会のもっている共同性と、共同性の再生産機能を破壊して、たとえ新寮に現吉田寮生が移行しても、新寮では共同性を作らせないこと。――これらの学生部の企図を粉砕するか否かが今まさに問題なのであり、これらの問題を可視的にするため、吉田寮自治会は「四項目要求」を提出したのである。10月からは、「四項目要求」を学生部長にのませていくために、署名運動と評議員追及を提起していく。
熊野寮と吉田寮の方針の違いを語るとき、「自治」ということばの意味するところが双方でくい違っていることを抜きにはできない。
熊野寮自治会常任委員会が「自治」ということばを使う時、それは大学や寮の「治外法権」を意味する。そして、熊野寮自治会常任委員会は、羽仁五郎の「都市の論理」を援用して「大学は学問をする所だ、というオブスキュランティズム(あいまい主義)では、大学の武装権の意義はわかるまい。大学は、大学の学問の自由を守るために学者及び学生が団結する組織である」と強調する。
羽仁五郎の説は、ルネッサンス期のボローニャ大学をもとに展開されているが、そのような大学があったという歴史的事実を認めることには、われわれ吉田寮自治会もやぶさかではない。しかし、かつてあったものが京大にも今ある、という熊野寮の言い分には疑問を抱く。努力目標として「そうしたい」のならわかるが、無前提に「治外法権」があるわけではなかろう。羽仁の説は前提が現実の条件のなかで崩れ去っているにもかかわらず、理想論だけを唱えたものにすぎない。考えてもみたまえ。寮の「治外法権」が成立しているのなら、なぜ寮内労働者は公務員法の適用によって当局から拘束されているのか。寮自治会の共同性の基礎が、大学当局から奪った、寮に関するあらゆる事務(入退寮権・食堂運営権・物品管理権etc.)にあることを見過ごしてはならないのである。
熊野寮自治会は、治外法権たる熊野寮を守るための武装権を保障するものとして、「入退寮件は寮自治の生命線」と主張する。それゆえ、自治寮にとっては、寮生大会の開催やそれへの全寮生の参加という寮生の意識や共同性のありかた以前に、寮自治会という団体が入退寮権を保持するか否かが自治寮かどうかの分岐点だ、と主張する。
一方、吉田寮自治会は、入退寮権の重要性を認めているが、その位置づけが熊野寮のそれと異なっている。
吉田寮においては、寮の自治が次の三層からなるととらえている。 すなわち、①寮生個人が自分自身の利害のために勝手きままにする行為(例えば、勉強する・遊ぶ・麻雀をうつ・阪神の勝利を予想しあう)②他者に対する働きかけを目的とした、寮自治会の成員としての個人の能動的な行動(例えば、討論・ビラまき・寮食堂運営・入寮選考)③行為や行動をしめす象徴(例えば、「寮自主管理」「反戦の砦」など)、この三つである。この三つは、①コミュニケーション、②共同性、③社会性、と言いかえることもできよう。吉田寮の自治は、寮生各人の利益総体を反映した自治団体の運営と、大学から克ち取った管理運営権(入退寮権・物品管理権など)の行使とのふたつから得られる共同性を基礎としている。しかし、吉田寮の共同性はこれらから得られるものに留まらず、寮生間の意思疎通そのもののあり方を問い直しながら、そのことによってまた逆に新たな共同性――差別抑圧を許さない共同性――へと発展し、そのことが「寮自主管理」という象徴=社会性を形成していった。
更にいうならば、吉田寮自治会の共同性をささえるコミュニケーションは、中学・高校の差別選抜を目的とする公教育体制に染められた京大生という意識に局限されたコミュニケーションでもなく、個人を規格化―画一化すると同時に異端者を排除―分断していく所与のメディア(TV・新聞・広告・ビラ・スタイル・ファッションetc.)を媒介としたコミュニケーションでもない。吉田寮の共同性は、それらと対向するコミュニケーションを模索していく共同性であり、その共同性が必然的に社会批判の視座をもつにいたるが故に、文部省はその共同性を破壊しようとして監獄寮を建てたがるのだ。
諸々の反戦を掲げて「治外法権」を主張する熊野寮自治会と「寮自主管理と反差別の共同性」を掲げる吉田寮自治会との違いは、寮生大会の決議の差異ではなく、それらの象徴=社会性をうちだすに至る、寮の共同性の質の差異こそ見るべきだ。
われわれ吉田寮自治会は、寮自治のあり方と、寮自治の自らにとっての意義を、先に述べたようにとらえ、この自治を破壊しようとしたのが82年12月14日の「在寮期限」評議会決定であった、と捉えている。「在寮期限」についての闘い方の方向性については既に述べた。次に文部省の「新々寮政策」とどう闘いながら、新々寮=監獄寮ではなく、新自治寮としての新寮を克ち取っていけるか、を示したい。
文部省の新々寮とは、定員一名あたり18m2の床面積を基礎にして、全室個室、電気個別メーター設置、食堂なし、共有スペースはコマ切れにして大きなスペースをつくらない、廊下を一直線に展望できないよう途中で曲げる、居室の廊下側には窓がなく、ドアに魚眼レンズの覗き穴をつける、などの物理的構造で寮生間のコミュニケーションを破壊し、さらに、自治会の結成を認めない、入退寮権を学生部長が完全掌握、備品の移動禁止、備品の借用書を大学に提出させる、ガードマンの業者委託、寮外性の寮内立入禁止などの体制で寮生を管理するものである。
このような文部省の行政指導の攻撃の状況下で、京大個別で闘っても新々寮しかとれない、と簡単に結論づけ、当局への追及の手をゆるめたり、新自治寮獲得を遠い彼岸のものとみたりしてもよいものだろうか。これを判断するために他大学の新寮獲得の成果を見よう。
しばしば監獄寮の代表とされる北海道大学恵迪寮の構造は、中心に管理棟、そこから放射状の六つの棟が配列された形になっている。この構造は刑務所を連想させるが、恵迪寮生はこの中央管理棟を実力占拠し、事務室から監視員を追放してこれを解散することによって、そこを逆に共有スペースにした。元来、監視のために、一階大ホール・二階吹きぬけ、という構造になっていた中央管理棟は、占拠されて以後、寮生大会の開催も可能な(400人の寮生が集合できる!)共有スペースとなった。また学生部職員の排除によって、備品の移動を自由にし、三室三人制6(寝部屋・勉強部屋・遊び部屋)を可能にした。そしてこれらの共同性をもとに、新々寮ながら強固な自治会を結成したのである。また、84年3月の自主募集による入寮者120人は、その後「不法占拠者」として扱われ恫喝をかけられ、翌春の自主募集は阻止されたが、120人の入寮者は寮生として追認された。
信州大学思誠寮は、82年新寮以降で、定員の一割の相部屋を克ち取った。
これらの事例は、文部省の行政指導が個々の大学の新寮建設について絶対的な力をもつわけではなく、学生の闘い方いかんで共同性を保障する構造の新寮を克ち取れる、ということを示している。しかし、これらの事例はどれもそれぞれ獲得点が不十分である。われわれ吉田寮自治会は、共同性の阻害となる構造を拒否し、同時に入退寮権・相部屋・寮食堂・炊事人(負担区分通達でも、栄養士と保健士の2名の大学負担の雇用を認めている!7)・物品管理権etc.を克ちとっていくことを目標として断固この闘争を推進する。また、吉田寮では現在、水光熱費(負担区分)の支払いを余儀なくされているが、新寮においても、個別のメーター設置を粉砕し、自治会一括対応によって個人の分断をさせない。そしていずれ、負担区分撤廃の闘争が組める共同性を実現させる。
われわれ吉田寮自治会は6月期、次の三項目要求を掲げて署名運動を展開した。三項目とは、
というものであった。われわれ吉田寮自治会は、5月の時点での、学生部と吉田寮の関係に規定されて、上に述べた三項目を選んだ。関係とはすなわち、新寮は吉田寮の移行寮ではない、新寮について吉田寮自治会との交渉は考えない、在寮期限は既に決定したことだ、という、学生部が吉田寮に一方的に示している態度に起因しており、吉田寮自治会としては、新自治寮を獲得し、在寮期限を粉砕するためには、とりも直さず、学生部のこの態度を取り払う必要があったのである。後に、熊野寮常任委員会は、この三項目要求署名に対応した、武内章学誠部委員(当時)の文書を「自治の売り渡し」と非難する8が、三項目要求自体がそもそも、寮自治を維持する具体的な項目まで網羅的に述べていない以上、まったく的はずれの非難である。それどころか、5月の状況に比べると、学生部の態度の変化に着目すれば、明らかに前進であり、さらに7月の反動的な学生部長回答を、学生部のまわりから一歩一歩切り崩していく意味でも武内の文書は画期的なことではなかったのか。
いや、そもそも熊野寮自治会は、三項目要求署名には賛同したはずであり、その項目を受け入れようという武内章寮小委員長の文書を、なぜ非難できようか。熊野寮自治会の態度は、事態を少しづつでも進めようとするものではなく、単に非難するためにしているとしか思えない。まったく、実践的とはいいがたいものである。
6・7月の事実経過は、以下のように進んだ。
吉田寮自治会は、積極的なクラス入り・情宣を教養部で展開し、学内諸団体にも呼びかけて1700名の署名を集めた(そのうち吉田寮生の集めた分は1400)。また7月4日の「在寮期限実質化阻止!新自治寮獲得!全学集会」には230人の学生が参加し、吉田寮自治会の運動に多くの注目が集まったといえよう。
7月9日の加藤学生部長(当時)の回答9は、三項目要求に何ら言及していないうえ、「正規の手続きをとる者は入寮者として配慮する10」といった反動的な内容であった。しかし、武内章寮章委員長(当時)は、7月30日に「新寮完成時には現吉田寮生の希望者の全員が入寮できるよう11努力する。また、新寮建設の過程で新寮の内容について12吉田寮自治会と話し合うよう努める。」という文書を出した。寮小委員長がこの文書を出した意味は重要であり、このことは学生部長の回答をまわりから変えていくものだった。
この状況下で、吉田寮の「埋文調査受け入れ方針」を踏みにじって、熊野寮常任委員会が埋文調査を妨害し、中止に追い込んだということはどういうことか、推して測られるであろう。
最後に、われわれ吉田寮自治会は、四項目要求を克ち取って新自治寮建設を前提とした話し合いを早期に開始させる方針で運動を進めることを明らかにしておきたい。全学の支援と注目を訴える!
1985年9月26日 吉田寮自治会
1985年9月26日付のビラ。本資料集への収録にあたっては省略したが、「10月補充選考のお知らせ」と地図が付されている。ビラ「9月10日教養部バリケードストライキに対するわれわれの見解」(1985年9月26日、本資料集に収録)及びビラ「全学のみなさん吉田寮自治会です。/4項目要求に注目してくれ!」の改訂版(初版は9月20日発行)と綴じ合わせて一緒に配布されたらしい。吉田自治会の立場を全学に明らかにする綱領的文書。明示的には言及されていないが、これはビラ「《吉田寮(執)に再度問う》/「在期」を粉砕せずに、対当局圧力運動で、新自治寮が戦取できるのか!?」(1985年9月、熊野寮自治会常任委員会、本資料集に収録)に対する反論でもある。
なお、本文献は「1985年度前期吉田寮自治会全体方針(案)」(1985年9月13日、本資料集に収録)の「6章 行動提起、1節 改築闘争 すなわち 今いう新寮闘争の経過の概観」及びレジュメ「“禍”を転じて福と為せ!」(1985年7月27日、本資料集に収録)の全文と共に、『京都大学新聞』第1939号(1985年10月16日)に掲載された。当時の寮生の証言によると、当時教養部においては中核派の常駐のため情宣活動が展開出来ず、吉田寮自治会の主張を何とか学内大衆に伝えるために、熊野寮自治会も入退寮舎氏名を発表していた『京都大学新聞』を利用したとのことである。
『編集部による註釈』を参照のこと。↩
巻末の用語一覧を参照のこと。↩
「「在寮期限」粉砕!新自治寮戦取!全学集会」(主催:吉田寮自治会・熊野寮自治会・室町寮自治会)のこと。同集会の基調(案)は本資料集に収録。↩
1970年代後半〜80年代前半にかけて、大阪大学が自治会を持つ学寮を廃寮するにあたって採用した方式を指して「阪大方式」と呼ぶ。単純化すれば、当局による入寮募集停止宣言→「宣言」後数年しての「正規寮生の卒業・退寮」→学寮の「不法」占拠規定→警察権力を導入しての学寮閉鎖という手順を踏む。この時期、沢田敏男総長、建本信雄学生部次長をはじめとする京大当局は、この強硬策で「吉田寮問題」を「解決」しようとしていた。↩
巻末の確約集を参照のこと。↩
実際には、8室ないし10室から成る「ブロック」を1室と見做しての「部屋サークル制」のはずである。「1985年度吉田寮自治会全体方針(案)」(1985年9月13日、吉田寮自治会執行委員会、本資料集に収録)でもそのような記述となっている。↩
各国立学校長宛通達「学寮における経費の負担区分について」(文大生第162号 昭和39年2月18日、文部省初等中等教育局長・文部省大学学術局長・文部省大臣官房会計課長)には、「学校が負担すべきもの」として、「保健衛生、栄養管理上、学校が負担すべきもの」として、「保健衛生、栄養管理上、学校が必要と認めて保健婦、栄養士等を配置する場合には、それらのものの給与」が挙げられている。↩
ビラ「《吉田寮(執)に再度問う!》/「在期」を粉砕せずに、対当局圧力運動で、新自治寮が戦取できるのか!?」(1985年9月、熊野寮自治会常任委員会、本資料集に収録)のこと。↩
吉田寮自治会委員長宛当局送付文書(京大学厚寮第20号 昭和60年7月9日、京都大学学生部長 加藤幹太、本資料集に収録)のこと。↩
該当文献には、「正規の手続きをとる者は、新入生、在学生共に入寮対象者として配慮します」とある。↩
正しくは「入寮することのできるよう」。↩
正しくは「ついて、」。↩