吉田寮在寮期限設定に伴う一連の措置の完了について(所感)

平成元年7月7日

総長 西島安則

この度、平成元年(1989)4月18日の評議会において、吉田寮の在寮期限設定に伴う一連の措置の失効を完了したことが承認されるに至る間の経緯は、本学の学寮の歴史において一つの時期を画したものであると考えている。

学寮(学生寄宿舎)の歴史は、本学の創立と同時に始まっている。

それより以前、今からちょうど100年前の明治22年(1889)に、第三高等中学校寄宿舎、食堂、賄所及び浴室がこの吉田の新しい校地の松林の中に建設された。現在の本部構内、百万遍の裏門を入った左側の所であった。

明治30年(1897)に本学が創立され、この寄宿舎を譲り受けた。そして、学生寄宿は学生の研学修養上の重要な機関として位置付けられた。寄宿舎生活における各舎生(寮生)の自由と寄宿舎の自治のあり方については、この初期の頃からその理想と現実との間に揺動があって、木下廣次初代総長の時に、寄宿舎の一時閉鎖の後の再開(明治39年(1906))にあたって出された告示にも、「大学寄宿舎が学生の研学修養上重要なる一機関たるべき所以ゆえんのものは、在舎生が特に規律あり制裁ある一つの切磋団体を組織するに在って存す」と述べられている。

昭和60年(1985)12月16日、私が総長に就任した時、吉田寮の在寮期限として設定されていた昭和61年(1986)3月31日は、わずか3ヶ月半後に迫っていた。まず、在寮期限の到来の時に、強制的に吉田寮の寮生を退去させ、吉田寮を老朽建物として機械的に撤去することは、本学の学寮問題の基本的な解決にはつながらず、かつ、在寮期限設定に至る本来の趣旨に沿うものでもないと考えた。そして全学的事項に関する大学の意思決定機関である評議会の決定を尊重して、その基底にある趣旨を実現するために、本学の学寮の歴史を振り返り、京都大学らしい解決方法を熟考した。その結果、当時の朝尾直弘学生部長と十分協議の上、在寮期限“執行中”という基本方針を採る決心した。これは、昭和55年(1980)のはじめ以来、昭和57年(1982)の末の評議会で在寮期限が設定されるに至る経緯をふまえるとともに、より永い学寮の歴史を深く思慮しつつ寮生による学寮の伝統的な自治を尊重し、解決の道を誤ることのないように慎重に進めようというものであった。誠意をもって寮生と話し合って行くなかで、自治の原則に沿った解決への熟成の時が必ず来ることを固く信じていたのである。

寮生との間で厳しい状況の中にもお互いに心を開いた話し合いを持ちうる環境の生まれることが大切であった。筧田知義学生部長、ついで河合隼雄学生部長の在任中、学生部委員会、特にその第三小委員会委員及び学生部の寮担当職員と寮生との話し合いが続けられ、寮生諸君は寮の自治のあるべき途を求めて苦悩した。そして、状況は次第に熟してきた。昭和63年(1988)8月4日の吉田西寮第4棟の撤去は重要な契機であったと考えている。吉田西寮第4棟は、かねてから老朽化の最も激しい建物で、私も学生部長1在任中は、台風の予報が出て風が強まると心配でよく夜中でも寮へ走って行き、寮生と共に台風の過ぎるのを待ったことがあった。この吉田西寮第4棟の撤去に際しては、緊迫した空気ではあったが、河合学生部長、学生部委員が現場で寮生と話し合い、吉田寮寮生大会2の結論を待って作業が開始された。その夜、学生部の会議室で学生部委員、学生部職員が集まって懇談した。皆撤去作業が終わったということよりも、その一日の経過の中で寮生との間に開かれた確かな心のつながりを感じることができたのである。その喜びで涙を流している教職員もあった。それは長い間延々と続いた暗いトンネルを一歩一歩と歩んでいるうちに、その行く先に確かな明かりを見る想いであった。

昭和63年(1988)10月17日の学生部委員会において「本年度中に在寮期限設定に伴う吉田寮問題の解決をみるよう努力する」という基本方針が決定されたのは、そのような時の成熟の結果であった。吉田寮生と学生部委員との間でさらに度々話し合いが続けられ、11月から翌年の2月にかけては河合学生部長と吉田寮自治会との話し合いが重ねられた。そして、その中で次第に具体的な解決への道が浮かび上がってきた。吉田西寮の撤去と吉田東寮の補修という当面の方策が練られる中で、吉田寮の将来像についても議論が深められた。

平成元年(1989年)1月23日、吉田寮自治会が真剣な討議の結果として、要求書3を河合学生部長に提出した。そしてそれに応じて、同日、河合学生部長から回答書4が出され、これを基礎にしてさらに具体的な話し合いが進められた。平成元年(1989)3月25日、吉田寮自治会との合意に基づいて、吉田西寮の第1棟及び第2棟が撤去された。そして3月27日付で「吉田寮入寮禁止措置解除」が公示された。この間、吉田東寮の一部補修も行われ、また4月14日には吉田入寮者名簿が提出され寄宿料が納入された。

平成元年(1989)4月18日開催の評議会で、佐野哲郎学生部長よりこれまでの経過が報告された。総長は評議会に対し、在寮期限設定に関連した全ての措置を終了したことの承認を求め、これが承認された。

この間になされた多くの関係者のたゆまぬ努力と全学の理解と協力によって、京都大学らしい学寮の歴史の中で意義ある一歩が踏み出されたものと私は信じる。心をこめてこの問題の正しい解決のために力を尽くしてくださった関係者の皆様に深い感謝の気持ちを表したい。

編集部による註釈

『京大広報』No.375(1989年7月10日)に掲載。吉田寮問題に関する総長名の全学向け文書は、「在寮期限」の設定に際しての「学生寄宿舎をめぐる問題」(1982年12月15日、総長 沢田敏男、『京大広報』No.245(1982年12月15日)に掲載)以来である。これに対し吉田寮自治会は、ビラ「冗談やめてよ西島さん/――京大広報に掲載された総長文書に対する我々の見解――」を出し、「我々寮生はこの文書を読んで(失笑と同時に)腹立たしさを感じざるをえない」として批判を行った。


  1. 1975年7月1日〜1976年8月16日。

  2. 正しくは全寮総会。

  3. 本資料集に収録。

  4. 本資料集に収録。