用語一覧

◇事項編

☆全国

埋蔵文化財調査 文化財保護法(昭和25年5月30日法律第214号)により義務づけられているもの。 「土木工事その他埋蔵文化財の調査以外の目的で、貝づか、古墳その他埋蔵文化財を包蔵する土地として周知されている土地(以下「周知の埋蔵文化財包蔵地」という。)を発掘しようとする場合」(同法第57条の2)には、発掘に着手しようとする日の60日前日までに文化庁長官に届け出なければならず、国の機関等が発掘する場合は、当該発掘に係る事業計画の策定にあたって、あらかじめ、文化庁長官に通知しなければならない。重要な遺跡が発掘された場合には、文化庁長官は必要な措置をとることができる。これを受けて、京都市教育委員会の責務を定めたものとして、京都市文化財保護条例(昭和56年10月29日条例第20号)がある。

大学管理法 1951年3月7日、国立大学管理法案及び公立大学管理法案が第10回国会に提出されたが、結局、審議未了・廃案に。その後政府は何度か成立を図り、1963年初めに緊迫した状況となるが、1963年1月13日、閣議決定で法案は国会に提出されないことになった。

「大学内における正常な秩序の維持について」 1969年4月21日付の各国公私立大学学長宛文部事務次官依名通達(文大生第267号 昭和44年4月21日)。「大学の内外を問わず、一部の過激な学生による違法な行動が最近とみに活発化し、大学における教育、研究に支障をきたすのみならず、社会的にも大きな不安を与えるのに至つていることはまことに遺憾」として、「学内の正常な秩序の回復、維持のため」の方策を6項目にわたって通達したもの。特に、警察当局との「緊密な連絡」、「適切な協力体制」が明記されている。

「学園における秩序の維持等について」 1978年4月20日付の各国公私立大学長宛文部事務次官依名通知(文大生187号 昭和53年4月20日)。「最近では学園はおおむね平穏な状態にある」としながらも「大学によっては、授業妨害その他の暴力行為の発生を見、あるいは私設の一部が不当に占拠される等の事態のなおあることは、まことに遺憾」として、4項目にわたって「学園の秩序維持と暴力行為の根絶のため、厳正適切な措置をとられるよう、命により通知」したもの。また、「大学内における正常な秩序の維持について」(文大生第267号 昭和44年4月21日)が改めて示されている。

「学園の秩序の維持等について」 1988年9月26日付の各国公私立大学学生指導担当部局長宛文部省高等教育局学生課長通知(63高学第30号 昭和63年9月26日)。「学生を含むいわゆる過激派団体等は、近年、皇室闘争、成田闘争、関西新国際空港建設反対闘争への取組みを強める傾向にあり、最近のその動向は、予断を許さない状況にあるといわれております」として、「これに関連する学生の動向の掌握と必要な指導管理」、「学内の各種施設及び危険物等の厳正な管理措置」、並びに文部省への情報の集中を要請したもの。なお、「参考」として、「第43回国民体育大会」(京都府)が明記されている。

「学園における秩序維持の徹底について(通知)」 1989年1月7日付の各国公私立大学長宛文部省高等教育局長通知(文n高学第234号 昭和64年1月7日)。「天皇陛下の崩御に伴い、過激派団体等の動向が特に憂慮されているところであります。このような時期に、いやしくも学生が違法行為に及び、あるいは大学の施設がこうした違法行為の拠点として利用されるようなことがあれば、社会一般にも不安を与える事態にいたるおそれなしとしません」として、「このような事態を未然に防止するため」、6項目にわたって要請したもの。

旧寮 原則として、1953年3月31日以前に建築された国立大学の寄宿舎。1993年現在において月額400円の寄宿料が徴収される。ただし、建築年度にかかわらず、木造の寄宿舎は月額400円の寄宿料が徴収される。京都大学においては、吉田寮・女子寮・室町寮がこれに相当する。

新寮 原則として、1959年4月1日以後1975年3月31日までに建築された国立大学の寄宿舎。1993年現在において月額700円の寄宿料が徴収される。ただし、建築年度にかかわらず、木造の寄宿舎は旧寮扱いである。また、1973年4月1日に以後に建築された個室の寄宿舎及び建築年度にかかわらず1977年5月1日以後に模様がえされた個室の寄宿舎は新々寮扱いである。京都大学においては、熊野寮がこれに相当する。

新々寮 原則として、1975年4月1日以後に建築された国立大学の寄宿舎。1993年4月1日以後に建築された国立大学の寄宿舎。1993年現在において、「居室が単身者用の場合」は月額3000円〜4100円、「居室が世帯用の場合」は9500〜14200円の寄宿料が徴収される。ただし、建築年度にかかわらず1977年5月1日以後に模様がえされた個室の寄宿舎も新々寮扱いである。京都大学においては、通常の寄宿舎とは異なるが、国際交流会館が法令上の適用を受ける。なお、「新々寮」とは学生が名付けた呼称であり、文部省側は「新規格寮」と呼ぶ。「新々寮4条件」の項も参照のこと。

新規格寮 「新々寮」の文部省側の呼称。

新々寮4条件 新寮予算交付の条件として1975年以降文部省が要求するものとして、おそらく1980年以降、吉田寮自治会が定式化しているもの。4条件とは、1.入退寮権学生部長掌握、2.負担区分完全適用、3.全室個室・集会所なし、4.寮食堂なし、以上である(順序は時々において異なる)。全寮連においては同様のものを「新規格寮4条件」として定式化している。文部省側の定式化としては、文部省大学局(現在は高等教育局)学生課編集の『厚生補導』(現在は『大学と学生』)1980年1月号掲載の「国立大学の厚生補導施設の現状と今後の課題」(石井久夫・文部省大学局学生課長)において、「新規格寮方式」として、1.管理運営の正常化、2.個室、3.負担区分の適用・寮食堂なし、を明記している。

学徒厚生審議会答申 1962年7月25日付文部大臣宛答申「大学における学寮の管理運営の改善とその整備目標について」。1961年4月18日付の文大生244号昭和36年諮問第1号に応じたものであり、戦後における初の体系的な学寮政策を示唆するもの。学寮の教育的意義を認め、入退寮選考への寮生参加・相部屋・集会室・寮食堂を認めるなど、今日から見るとむしろ進歩的な内容をもつが、当時においては、当局側よりする「教育的意義」は自治への介入であり、また経費の負担区分に関して「原則」が示されたことは厚生施設としての意義の放棄である、と学生によって批判されていた。

「学寮における経費の負担区分について」 1964年2月18日付の各国立大学校長宛文部省初等中等教育局長・文部省大学学術局長・文部省大臣官房会計課長通達(文大生第162号 昭和39年2月18日)。略称「2・18通達」。学徒厚生審議会答申に基づき、「学寮の管理運営に要する経費の負担区分の基準を設定」したもの。各大学で反発を引き起こしたが、会計検査院の指摘を通じて徐々に貫徹されていった。

「○○大学学寮管理運営規則(参考案)」 1964年8月付で文部省より示されたもの。学寮管理運営規則のひな型で、新寮予算交付の条件とされる。内容は、大学当局の管理運営権を明確にし、光熱水料等の経費の寮生負担を明記し、その他、部外者の宿泊禁止・当局による掲示の許可制なども定められている。

「国立学校学生寄宿舎の維持管理について」 1975年9月4日付の関係国立学校長宛文部省管理局長・文部省大学局長通知(文管計第248号 昭和50年9月4日)。大学により提出された寄宿舎の耐久度調査に基づき、「建物として使用に耐え得ないと思われるものがそのまま使用されているように思われ」る寄宿舎を有する大学に対して通知されたもの。老朽寄宿舎について、将来計画を早急に策定し、改築もしくはそれ以外の措置をとるよう要請したもの。なお、本通知において文部省が新寮建設予算交付にあたっての条件を示したとの誤解が一部にあるが、そのような記述は見られない。

「国立大学における厚生補導施設の改善充実について」 1980年6月30日付の厚生補導施設改善充実に関する調査研究会報告。文部省が国立大学の学長等関係者の協力を得て設けた機関である厚生補導施設改善充実に関する調査研究会が文部省大学局長宛に提出したもの。「Ⅲ 学寮」において、「学寮の新改築に当っては、いわゆる新規格寮方式(個室、寮外食堂利用、光熱水料等の個室メーター設置)を採ることが適当」、「大学は入寮選考及び入退寮許可、経費の負担区分、使用に当って順守すべき条件など必要な事項を学寮管理規則等で規定し、明確にする必要がある」、「市民社会における自明の原則として寮生の日常生活に必要な経費即ち私生活に係る経費は寮生が支弁すべき」などと明記。本報告は各国立大学長宛文部省大学局長通知「国立大学における厚生補導施設の改善充実について(通知)」(文大生224号 昭和55年7月30日)に「別添」され、「各国立大学におかれても、この報告を参考に、厚生補導施設の整備充実と管理運営の改善を進められるようお願い」された。

☆京都大学

告示第9号 1950年10月16日、当時のレッド・バージ粉砕闘争に際して出されたもので、「本学は学生ストライキを禁止する。したがってストライキを議せんとする学生大会およびストライキを目的とする一切の行為を許さない」とするもの。

竹本処分 経済学部の竹本信弘助手(ペンネーム:滝田修)に対する分限免職処分をめぐる問題のこと竹本助手は、1971年8月21日に自衛隊朝霞駐屯地で起きた自衛隊員刺殺事件(朝霞事件)に関連して、1972年1月9日付で別件の強盗予備罪の共謀共同正犯の容疑で指名手配され、以後、潜伏を余儀なくされた。これに対し、同年10月12日、経済学部教官協議会によって同月1日付で欠勤の措置が執られ、1973年1月11日、経済学部教授会によって分限免職処分の提起が決定され、それに基づき、同月16日、評議会において審査が決定された。1977年6月18日、評議会は竹本助手の分限免職処分を賛成32、反対8、保留4で決定した。
 その後、1980年6月20日に強盗予備罪の時効が到来したためそれに先立つ5月20日に強盗致死罪の共謀共同正犯の容疑で改めて指名手配され、1982年8月8日、竹本助手は逮捕された。1989年3月2日、浦和地方裁判所刑事第一部は竹本助手に強盗致死罪の幇助等で懲役5年の判決を下したが、未決勾留のうち5年間が刑期に算入されたため竹本助手は釈放された。同月16日、弁護側は東京高等裁判所に控訴したが、1992年7月21日、控訴取り下げにより判決が確定した。

京都大学国有財産取扱規程 1978年3月7日、達示第12号制定。文部省所管国有財産取扱規程(昭和32年7月1日文部省訓令)を受けて、「京都大学所属の国有財産の管理及び処分に関する事項の取扱い」について規定したもの。第6条第1項において「部局の長は、その補助執行に係る国有財産に教育及び研究に支障をきたすこととなる用途及び目的の阻害を生じ、又は生ずるおそれがあると認めたとき」はその旨「早朝に報告しなければならない」、同条第2項において「総長は、前項に規定する報告を受けた場合において、必要があると認めるときは、部局の長に対しとるべき措置を指示することができる」との規程がある。

関西学研都市 関西文化学術研究都市への移転・進出(構想)のこと。将来計画検討委員会第一次答申(1985年3月29日、『京大広報』No.290別冊(1985年4月15日))によると、「吉田キャンパスを放棄して京都大学が全面的に新キャンパスに移転することを前提とするような将来計画は考えられない。したがって、新キャンパスには新しい施設が新営され、これに加えて新キャンパスへの移転を希望する部局があれば、全学的な調整の手続きを経て移転することが可能であるということになろう」。また、「新キャンパスのもつべき要件」を挙げた上で、「これらを満たす候補地の一つとして、関西文化学術研究都市が挙げられる」とされた。
 その後、関西学研都市への移転は具体化していないが、1993年11月、「21世紀における京都大学のあり方について/―独立研究科及び第3キャンパス基本構想(1)―/<試案>」が将来構想検討委員会より総長に答申され、理科系研究科の「第3キャンパス」への移転及び独立研究科の「第3キャンパス」での新設が提言されている。

吉田寮 1913年開寮。1959年より、1920年及び1923年建築の京都織物の女工用寄宿舎が京都大学の寄宿舎として転用され、以後、従来からの寄宿舎が吉田東寮、新しく転用された寄宿舎が吉田西寮と呼ばれるようになる。木造2階のいわゆる旧寮。大学当局の定めた定員は東寮147名、西寮76名。1985年3月に老朽化のため吉田西寮Ⅳ棟の居住放棄がなされ、1988年8月4日に撤去。1989年3月25日には残る西寮全体が撤去され、以後、従来の吉田東寮を吉田寮と称して現在に至る。

熊野寮 1965年開寮。鉄筋4階のいわゆる新寮。大学当局の定めた定員は422名。

女子寮 1959年開寮。木造2階のいわゆる旧寮。大学当局の定めた定員は35名。女子学部学生用の寄宿舎。

室町寮 1965年開寮。木造2階のいわゆる旧寮。大学当局の定めた定員は19名。大学院生等用の寄宿舎。

71年確約 1971年に吉田寮・熊野寮自治会と淺井学生部長との間に結ばれた一連の確約。寮生による自主管理を大幅に認めたもの。1971年2月22日付の「確認書B」には、「①入退寮権は一切寮委員会が保持・行使すべきだと考える」とあり、「確認書C」には、「C.選考受験者には合否を直接通知し、合格者のうち、一定期間の後、理由無く入寮しないものは、入寮資格を取り消す。また、同時に新入寮生全員の氏名を選考概評とともに、「京大新聞」紙上に発表する」とある。また、3月8日付の確認書でも同様のことが確認されている。

会計検査院不正常指摘 京都大学長岡本道雄宛「実地検査の結果について」(542普第279号 昭和54年9月14日、会計検査院事務総局第2局長 藤井健太郎)。吉田寮と熊野寮について、「長期にわたり、寮生よって「占拠状態」にあるとして「速やかに学寮の正常化の方途を講じ、もって、国有財産及び物品の管理の適正化を図るべき」としている。また、「吉田寮、熊野寮、室町寮の寄宿料」が1974年度以降1978年度までの間に491,900円が未徴収となっているとしている。さらに4寮全体について、2・18通達に違反して1978年度において「寮生の負担となる額29,810,842円を国費で負担しているのは当を得ないと認められる」としている。
 これに対し京大当局は会計検査院事務総局第2局長藤井健太郎宛「実地検査の結果について」(主法第209号 昭和54年10月27日、京都大学総長 岡本道雄)を出し、「管理の適正を期す所存」、寄宿料の「未徴収分については、早期に徴収を図るべく、催促をさらに積極的に行なう所存」、「経費負担区分の根本的な改善策を検討するため、全学的態勢による特別委員会を設けることとし」、「それまでの間においても、学生部長及び学生部委員会を中心として寮生への説得を続け、国費の超過負担を解消する努力を傾注する所存」などと回答した。

12・15弾圧 1979年11月、熊野寮の炊フが1名退職したため、熊野寮自治会は後任を学生部に要求していた。その中で12月15日、『京都大学新聞』第1811号(1979年12月16日)によると、熊野寮生約50名が学生部に赴き、久米厚生課長・寮務ら、次いで翠川学生部長を追及した。この追及の過程で暴行があったとして12時15分頃、機動隊が導入され、追及は打ち切られた。その後24日には、『京都大学新聞』第1813号(1980年1月16日)によると、15日の「暴行」の被疑者1名に対する令状により熊野寮に機動隊が導入され、家宅捜索が行われた。その後、『京都大学新聞』第1815号(1980年2月16日)よると、1月22日に熊野寮生2名、2月13日に同1名が逮捕された。
 これらの学生はいずれも起訴され、1981年4月15日、京都地方裁判所において、熊野寮自治会委員長に懲役7月、同副委員長に懲役8月、その他熊野寮生に懲役10月、いずれも執行猶予2年の判決が下された。

在寮者確認 71年確約により、吉田寮・熊野寮については、入退寮選考は寮自治会が行い、入退寮者氏名を『京都大学新聞』に発表することになっていたが、1979年度の新聞発表が行われていなかった1980年1月10日、翠川修学生部長は吉田寮・熊野寮生宛文書「学寮における当面の諸問題に関する学生部の基本的な方針について」において在寮者名簿の提出を要求した。2月16日付の『京都大学新聞』において1979年度の新聞発表は行われたが、大学当局はこれを正式なものとは認めず、7月10日、吉田寮・熊野寮自治会委員長に対し、在寮者名簿の提出を要求した。名簿提出は入退寮権の侵害であるとして寮自治会が名簿提出を拒否する中、10月31日、大学当局は新聞発表された寮生及び親元に対し、「在寮者の確認について」を送付し、個別に在寮者確認を行おうとする。これに対し、寮自治会は、在寮者確認には応じないことで一致した。その後も在寮者確認は繰り返され、1981年7月14日には在寮者確認に応じなかった寮生に「在寮者として認めることはできません」という通知がなされている。
 以後、1986年3月31日に吉田寮の「在寮期限」が到来するに及び、吉田寮生においては、在寮者確認に応じた寮生、在寮者確認に応じずその後も在寮者確認が送りつけられる寮生、「在寮期限」以後に入寮したため在寮者確認が送りつけられることすらない寮生、という3つの身分が生じた。
 最終的には1988―89年の河合隼雄学生部長との団体交渉により、学生部長全学公開文書「吉田寮問題について」(1989年1月24日、吉田寮自治会が「1989年4月以降、在寮者名簿の提出、及び寄宿料の支払いを毎月初め、一括して行なう」ことで合意が成立した。
 なお、熊野寮については、学生部長名全学公開文書「熊野寮問題について」(1991年3月25日、学生部長 佐野哲郎)によると、1991年3月19日、「寮自治会は1991年4月以降入退寮者氏名を京大新聞紙上に発表」し、「寮自治会は1991年4月以降毎月10日までに一括して支払う」ことで合意が成立した。

基本方針 「本学における学寮管理の正常化と老朽寮の問題は、放置しえない状態にいたっている。これをすみやかに解決するため、新寮の建設を含めて、学寮の正常化を実現していくことを本学の基本方針とする」というもの。
 1980年12月13日、学生部委員会は吉田寮・熊野寮に対して寮問題の解決のために入寮募集停止措置で臨む方針を決定したが、沢田敏男総長と意見が一致せず、入停措置を実行に移すまでには至らなかった。その後、1981年4月6日、10月12日の学生部委員会においても入停阻止方針が再確認されたが、12月12日に行われた学生部委員懇談会において入停阻止方針では全学のコンセンサスが得られないことが明らかとなったので、基本方針を策定して全学の方針とすることが迫られた。
 検討の結果、1982年5月31日に上記の「基本方針」が学生部委員会において決定された。その後、6月21日、28日の部局長会議において学寮問題審議されたが、7月6日の部局長会議において、今後部局長懇談会に切り換えて時間をかけて審議することとなった。そして7月13日、20日の部局長懇談会での審議の結果、上記の「基本方針」が了承されるに至った。ただし、部局長懇談会は、大学における正式な決定機関ではない。
 その後、8月末から10月はじめにかけて、上記「基本方針」を含む学生部の方針の内容が学生部委員会第3小委員会を中心として寮生に伝えられたが、10月12日、学生部長名全学公開文書「本学の学寮問題について」(1982年9月付、京都大学学生部長 北川善太郎)の発表において初めて全学に明らかにされた。

在寮期限 「吉田寮の在寮期限を昭和61年3月31日とする」との1982年12月14日の評議会決定。すなわち、1986年3月31日をもって吉田寮を廃寮にするというもの。
 1982年5月31日に「基本方針」が学生部委員会で決定された後、6月14日に「基本方針実施のための措置」として「〔A〕学寮の正常のために、まず、老朽寮に対して在寮期限を定め、のち在寮期限にあわせて新寮を建てる。なお、在寮期限の到来に先立って入寮停止措置をする。/〔B〕他の学寮に対しても、〔A〕と同種の必要な措置を段階的に実施する」が学生部委員会で決定された。8月9日には、吉田寮1986年3月(または1985年3月)、熊野寮1987年3月(または1986年3月)在寮期限設定との学生部委員会第3小委員会案が決定された。
 その後、10月12日に発表された学生部長全学公開文書「本学の学寮問題について」(1982年9月付、京都大学学生部長 北川善太郎)において、「ここでいう在寮期限は次のような内容の方策である。すなわち、本学は学寮の管理状態が不正常であることに加え、木造の老朽寮をかかえているので、これらを解決するため、在寮期限を設定し、期限がくれば、老朽寮は寮としての使用を廃止する。それと併行して、在寮期限の到来にあわせて、新しい学寮の建設に努める。熊野寮は老朽寮ではないが、第二段階として、同種の措置を講ずる」として初めて全学に明らかにされた。
 そして12月14日の評議会決定に至る。この評議会の場においては淺井健次郎・理学部評議員が在寮期限の設定の理由について「老朽化か、それとも正常化か。老朽化を理由とするなら賛成します」と質問したところ、神野博学生部長は特に否定しなかった。それにもかかわらず、12月15日付の沢田敏男総長名文書「学生寄宿舎をめぐる問題」(『京大広報』No.245(1982年12月15日)掲載)では「総長としての基本的な考え」として「正常化」が主眼であることを明らかにした。その後、1983年1〜2月の全学団交戦における部局長・評議員の追及もあり、当局は入寮募集停止措置を同時に行なうことに失敗し、百数十人もの大量の寮生を残したまま1986年3月31日の「在寮期限」当日を迎えることとなった。結局、当局は廃寮をなしきることができず、入寮募集停止、寮食堂休業(炊フ2名の配置転換)、守衛1名の配置転換という形で「在寮期限」の一部執行を行い、4月以降は「在寮期限執行中」とした。
 その後、膠着状態を経て、1988年から1989年にかけての河合隼雄学生部長との団交により吉田寮問題に関して決着に至り、1989年4月18日の評議会において「今回学生部長と吉田寮自治会との間で交わされた吉田西寮の撤去、東寮の補修、在寮者名簿の提出及び寄宿料の納付等の合意をもって、在寮期限設定以後の一連の執行は完了したとしたい」旨の西島安則総長の提案が了承されるに至り、「在寮期限」問題は終結した。

5・19弾圧 1983年4月15日、「会計検査院に不当な「指摘」をさせない全学集会」が開催され、寮生・学生が本部時計台2階に上がって抗議文を総長に手渡した。これに対し5月18日早朝、吉田寮・熊野寮に家宅捜索が行われ、4月15日の事態をもって「建造物侵入」として3名を逮捕、1名を指名手配した。同日、緊急抗議集会が開催され、学生部棟にデモ隊が入ったところ、2名が「建造物侵入」で逮捕され、機動隊員に対する抗議行動を行った学生1名が「公務執行妨害」で逮捕された。6月7日、吉田西寮・熊野寮に家宅捜索が行われ、5月18日「建造物侵入」に対して学生1名が逮捕され、更に6月9日、4月15日の「建造物侵入」で指名手配されていた学生1名が路上で逮捕された。この一連の事態を通常「5・18弾圧」と呼んでいる。
 その後、「公務執行妨害」で学生1名、「建造物侵入」で学生4名が起訴され、1984年1月18日、「公務執行妨害」の被告に対し懲役4月、執行猶予2年の判決が下され、1985年1月24日、「建造物侵入」の被告に対し1名が懲役4月、他3名が3月、執行猶予各2年の判決が下された。

5・10弾圧 1987年5月10日、京都大学農学部W100号教室において「5・10集会実行委員会」により「5・10 三里塚・沖縄大集会」が予定されていた。しかし、『京都大学新聞』第1976号(1987年6月1日)によると、5月10日は日曜日であるので農学部当局は教室使用許可を与えず、土曜日である9日には農学部自治会に対して新入生歓迎会のために許可を与えた。しかしながら「5・10集会」の情宣は続けられ、5月8日朝にはW100号教室の窓ガラス2枚及び入り口の鍵が何者かによって壊されていることが発見され、農学部当局は警察に被害届を堤出し、機動隊導入の下、同日現場検証が行われた。その後、窓ガラス及び鍵の破壊に対して「器物損壊」及び「建造物侵入」、「5・10集会」の学内ポスターに対して「軽犯罪法違反」の容疑で5月10日に熊野寮、14日に教養部構内・尚賢館に対して家宅捜索が行われた。なお、5月9日には教室は使用されず、「5・10集会」は熊野寮食堂で行われた。
 これに対し、吉田寮自治会は全学自治会同学会・全学団交実行委員会が5月18日付で総長・農学部長・学生部長に提出した申し入れ書に26日付で参加した。また、熊野寮自治会から「5・10弾圧弾劾全学共闘会議」への参加を呼びかけられたが、結局参加しなかった。同全学共闘会議には熊野寮自治会・農学部自治会・農学部闘争委員会・教養部共闘会議・全学闘争委員会が参加した。
 その後、5月27日には学生部長と農学部長が警察に対し「1)一般的には学内捜索は慎重にされたい。2)学内掲示物による「軽犯罪法違反」の被疑を付加しての学内捜索は遺憾である」ことを申し入れ、そのことが『京大広報』No.336(1987年7月10日)において明らかにされた。

6・26弾圧 『京都大学新聞』第1978号(1987年7月1日)より引用すると、「六月二六日、十二時五十分頃に警察が教養部構内に大学当局、全学自治会同学会に通知することなく入ってきた。その理由は、正午過ぎに赤ヘルの学生が原理研のメンバーを追求し、学外へ放逐した際に、「暴行事件」が生じたと、一一◯番があったというもの。警察が大学当局に連絡することもなく無断で学内に入ってきたのは、七◯年のNFに原理研が学内に機動隊を導入して以来ことママ。「大学の自治」の最終の一線をも踏み越えようとした重大な問題であると言える」。

河合の定理 1988年8月4日、吉田西寮Ⅳ棟撤去を前に吉田寮生との話し合いに際して河合隼雄学生部長によって示された、「小さい廃棄物の処理は話し合って決めるが大きい廃棄物(吉田西寮Ⅳ棟のこと)の処理は話し合わなくてもよい。これは「河合の定理」と言ってもよい」との考え。

三項目要求 1985年6月より吉田寮自治会が開始した「「在寮期限」後の吉田寮生の生活保障と新寮に関する話し合いを要求する全学署名」において示されたもの。
 内容は、「私達は、学生部による吉田寮の廃寮に反対し加藤学生部長に対して、次の三項目を要求します。/一、「在寮期限」到来後も吉田寮自治会との合意なしに寮の機能を停止しないこと。/二、吉田寮を建て替え、現吉田寮生の新寮移行を保障すること。/三、新寮に関することは全て吉田寮生との話し合いで決定すること」。
 7月4日に行われた「「在寮期限」粉砕!新自治寮獲得!全学習会」(主催:吉田寮自治会・熊野寮自治会・室町寮自治会)終了後、1700名分の署名が提出された。

四項目要求 1985年9月の学生部長の交替に際して朝尾直弘・新学生部長に対して吉田寮自治会が行った要求。
 内容は「1.「在寮期限」到来後も寮の機能を一切停止しないこと・またその旨部局長会議と評議会に提案し、強く働きかけること。/2.「在寮期限」到来後も吉田寮の入寮募集を停止しないこと。/3.新寮に関することをすべて吉田寮自治会と話し合って決定し、吉田寮を建て替えること。/4.現吉田寮の希望者の全員と吉田寮自治会の新寮への移行を保証すること」。
 その後、五項目要求に発展。

五項目要求 1985年10月16日に学生部長名全学公開文書「本学の学寮問題について」(1985年8月付、学生部長 加藤幹太)が出されたことに対応して四項目要求を発展させたもの。内容は、四項目要求に「5.'85月8月付加藤学生部長名で出された「本学の学寮問題について」なる文書を撤回せよ」を付け加えたもの。同時に、五項目要求と同内容の「「在寮期限」後の吉田寮自治会の存続と新寮に関する話し合いを要求する署名」が開始された。

三項目要求 1986年1月31日に予定されていた教養部代議員大会へ向けてのスローガンの一部。内容は、教養部代議員大会実行委員会の機関紙『STRIKE!』第2号(1986年1月21日[編集部註:原資料には「1981.1.21」とある])によると、「①京大当局は、82年12・14決定を白紙撤回せよ!/②京大当局は、政府文部省の自治破壊としての“新々寮”を拒否し、無条件完全自治寮を建設せよ!/③京大当局は、それまで吉田寮を無条件存続させよ!/④京大当局は、以上3項目を全学生の前で確約せよ!/⑤我々は、3項目の確約実現までストライキで闘うぞ!」なお、若干文面は異なるが、ほぼ同内容のスローガンが中核派のビラによっても唱えられた。

五つの要求 1986年1月22日付のビラ「暴力の根絶と寮問題の民主的解決のために―我々の提案と要求―」(教養部自治会常任委員会)によって公表された、教養部自治会常任委員会・理学部自治会評議会・医学部自治会執行委員会・法学部自治会常任委員会の連名によってなされた要求。正式名称は「新寮建設の早期実現!!具体的検討を直ちに開始しよう!!/新寮建設のための我々の五つの要求」。内容は、「①埋蔵文化財調査を一刻も早く行い、新寮建設のための予算化を実現すること/②新寮建設に際し、建設期間中の現寮生の生活保障において、仮入居施設を作るなど、具体的な案を提示せよ/③来期の新入生の中の、低所得者層のために、希望者の入居保障も、②の項目と併せて検討せよ!/④新寮の具体的な内容について、我々と交渉に応じよ/また、政府は、「寮食堂をつけない」「寮自治への制約をかける」などの不当な干渉を強めているが、これに反対する立場を明確にせよ/具体的には(1)寮食堂については、これを設置すること、少なくとも今後の拡充の可能性を持った捕食堂をつけること(2)個室については、現寮生や学生のアンケートをとるなど意見を集約したうえで、検討すること(3)負担区分の一方的決定は行わず、寮生、全学生との協議で決定すること(4)入退寮選考権をはじめ学生の寮自治権を認めること/*以上は、全寮連加盟寮の多くで実現していることである/⑤「バリスト」、授業破壊など一切の暴力にたいし毅然とした態度をとり、また、いわゆる「つるしあげ団交」などに対する無責任な対応をやめること/学生自治会などと正規の交渉ルートを確立し、誠実に対応すること。

六項目要求 1986年6月13日付で吉田寮自治会が朝尾直弘学生部長に提出したもの。内容は、「1、吉田寮の機能を維持せよ。寮生叩き出しに向けた準備をするな。/2、入寮募集停止措置を撤回せよ。/3、吉田寮生全員の新寮への移行を保証せよ。/4、吉田寮自治会の新寮での存続を認めよ。/5、新寮計画を公開せよ。新寮のことも含め、吉田寮に関すること全てを吉田寮自治会と話し合い、合意した上で決定せよ。/6、昨年10月26日、30日の座り込みテント強制撤去について自己批判せよ。今後、警察と連絡を取り合うな。寮生・学生に弾圧を加えるな」また、同時に、六項目要求と同内容の「寮生叩き出し阻止・新自治寮獲得全学署名」が開始された。

二項目要求 1988年6月13日付で吉田寮自治会が河合隼雄・学生部長に対して提出した「要求書」において示された要求。内容は、「1.吉田寮に関することはすべて寮自治会をはじめとする学生と話し合え。一方的な廃寮化決定をするな。/2.入退寮権をはじめとする吉田寮自治会の諸権利を侵害するな」また、同時に、「吉田寮廃寮化を許すな!二項目要求署名」が開始された。

◇団体編

*以下の「連絡先は」本資料集収録文献発行当時のビラなどによるものであり、現在も通用するかは保証できない。

☆全国

中央教育審議会 文部大臣の諮問機関。総理大臣の諮問機関であった教育刷新審議会第35回建議「中央教育審議会」について(1951年11月12日)に基づき、財界の肝入りにより1952年6月6日、文部省設置法第7条第2項によると、「文部大臣の諮問に応じて教育、学術又は文化に関する基本的な重要施策について調査審議し、及びこれらの事項に関して文部大臣に建議する」機関である。
 有名な答申としては、第19回答申「大学教育の改善について」(1963年1月28日)、第20回答申「後期中等教育の拡充整備について/別記「期待される人間像」」(1966年10月30日)、第21回答申「当面する大学教育の課題に対応するための方策について」(1969年4月30日)、第22回答申「今後における学校教育の総合的な拡充整備のための基本的施策について」(1971年6月11日)など。

臨時教育審議会 総理大臣の諮問機関。1984年8月21日〜1987年8月20日の間設置。1984年9月5日、「我が国における社会の変化及び文化の発展に対応する教育の実現を期して各般にわたる施策に関し必要な改革を図るための基本的施策について」諮問を受け、以下、1985年6月26日第1次答申、1986年4月23日第2次答申、1987年4月1日第3次答申、1987年8月7日第4次(最終)答申を文部大臣に提出する。

大学審議会 文部大臣の諮問機関。臨時教育審議会第2次答申(1986年4月23日)の第2部 教育の活性化とその信頼を高めるための改革/第4章 高等教育の改革と学術研究の振興/第3節 ユニバーシティ・カウンシル(大学審議会―仮称)の創設、の提言に基づき、1987年9月10日、学校教育法の一部改正によ設置。同年10月13日に第1回会合を開き発足。「その権限に属させられた事項を調査審議するほか、文部大臣の諮問に応じ、大学(高等専門学校を含む。…)に関する基本的事項を調査審議」し、「必要があると認めるときは、文部大臣に対し勧告することができる」機関である。
 1987年10月29日の第2回会合において文部大臣より「大学等における教育研究の高度化、個性化及び活性化等の具体的方策について」諮問を受け、順次答申していくことになる。答申としては、「大学院制度の弾力化について」(1988年12月19日)、「大学教育の改善について」(1991年2月8日)、「学位制度の見直し及び大学院の評価について」(1991年2月8日)、「学位授与機関の創設について」(1991年2月8日)、「短期大学教育の改善について」(1991年2月8日)、「高等専門学校教育の改善について」(1991年2月8日)、「平成5年度以降の高等教育の計画的整備について」(1993年5月17日)、「大学院の整備充実について」(1993年5月17日)、「夜間に教育を行う博士課程等について」(1993年9月16日)。

国立大学協会 戦前に文部省内で開かれていた帝国大学総長会議(のち、国立総合大学総長会議)を前身として、1950年7月に「国立大学相互の緊密な連絡と協力によりその振興に寄与すること」を目的として設立された自主的な団体。構成員は国立大学であるが、実際には学長であり、専門員などの資格で個々の教員も参加している。対外的な見解としては、国立大学管理法案の国会提出の動きに対する1962年の「大学の管理運営に関する中間報告」、1966年の「大学の管理運営に関する意見」、自主改革路線の最終見解である1973年の「大学改革に関する調査研究報告書」などがある。

全日本学生自治会総連合 略称全学連。1948年9月結成、1949年2月4〜6日第1回大会。当初は日本共産党の指導を受けていたが、1958年6月1日、全学連執行部の当院が党中央との間に暴力事件(6・1事件)を起こし、袂を別つ。同年12月の第13回臨時全国大会では1957年12月に結成された革共同系が主導権を掌握する。翌1959年6月の第14回定期大会では1958年12月に結成されたブント系が主導権を掌握する(単一全学連)。
 1960年3月には第15臨時大会、7月には第16回大会が開催されるが、民青系はこれらの大会から排除され、「大会は不成立」との立場をとり、全自連(全国学生自治会連絡会議)を結成する。1961年4月の第27回中央委員会では1960年5月に結成されたマル学同系が執行部を掌握する。1961年7月にはマル学同系が全自連系及び「つるや連合」(旧ブント系・革共同関西派・社青同)を角材で排除して単独で第17回大会を開催する。1963年の2月から4月にかけての革共同及びマル学同の中核派と革マル派への分裂を受けて、4月の第34回中央委員会では中核派中執が罷免され、7月には革マル派が単独で第20回大会を開催する(全学連の序列化)。
 1963年7月、民青系により平民学連(安保反対平和と民主主義を守る学生自治会連合)が結成され、平民学連第1回大会が開催される。1964年9月、平民学連が「全学連を再建しよう!」のアピールを発し、それに応えて10月、全国自治会代表者会議が開催され、全学連再建準備委員会が結成発足、12月に「全学連再建大会」が開催され、第15回臨時大会と称する(2つの全学連)。
 1966年10月、社学同・社青同解放派・中核派の三派連合により全学連再建準備結成大会が開催され、12月に「三派全学連」結成大会が開催される(3つの全学連)。
 1968年、三派全学連が分裂し、中核派と「反帝全学連」(社学同・ML派・社青同解放派・第4インター)がそれぞれ第20回大会を開催する。「反帝全学連」は1969年3月の第20回臨時大会での内部分裂により消滅し、7月には解放派が単独で第20回大会を開催する(4つの全学連)。
 1993年現在、「全学連」を名乗る組織は4つある。

全日本学生寮自治会連合 略称全寮連。1958年11月結成。機関紙として『緑の旗』(一時は旬刊、現在は月刊)、機関紙として『学寮』、『寮運動』。『緑の旗』第553号(1993年8月15日)によると、加盟寮数は65寮。吉田寮自治会は加盟していない。

日本民主青年同盟 略称民青同または民青。日本共産党の指導を受ける青年組織。1923年4月5日結成の「日本共産青年同盟」(共青)を前身とする。1946年2月、「日本青年共産同盟」(青共)として再建され、1949年1月、「全日本民主青年同盟」(全民青)及び「民主主義学生同盟」と合同して「民主青年合同委員会」を結成、同年4月の「日本民主青年団準備会」等を経て、1951年5月に「日本民主青年団」(民青団)となり、1951年1月の第5回全国大会で「日本民主青年同盟」に改称し現在に至る。機関紙として『民主青年新聞』(週間)、『われら高校生』(週刊)、機関誌として『青年運動』(月刊)。

日本マルクス主義学生同盟中核派 略称マル学同中核派または単に中核派。革命的共産主義者同盟全国委員会の指導を受ける学生組織。1960年5月にマル学同が結成されるが、「革共同第3次分裂」の中で1963年2月マル学同中核派を結成し分離。機関誌『中核』。革命的共産主義者同盟全国委員会の機関誌として『前進』(週刊)、機関誌として『共産主義者』(季刊)、『武装』(月刊、1993年11月号より『コミューン』と改題)。

民主主義学生同盟全国委員会 略称民学同。現代政治研究会の指導を受ける学生組織。1963年結成。機関紙『民主主義の旗』(月2回刊)。現代政治研究会の機関紙として『統一の旗』(月2回刊)。

日本共産主義青年同盟 日本共産党(左派)中央委員会の指導を受ける青年組織。日本共産党(左派)中央委員会は1968年の8月の日本共産党(左派)全国協議会の結成を経て1969年11月結成。日本共産党(左派)の機関紙として『人民の星』(週3回刊)、同じく機関誌として『革命戦士』。

☆京都大学

《大学当局》

評議会 通常の国立大学において、教育公務員特例法(昭和24年1月12日法律第1号)に定めのある「大学管理機関」に相当する機関。「国立大学の評議会に関する暫定措置を定める規則」(昭和28年4月22日文部省令第11号)によると、学長の諮問に応じて大学の運営に関する重要事項を審議する。学長・各学部長及び教養部長・各学部及び教養部ごとに教授2名・各附置研究所の長を評議員として構成されるが、評議会の議により構成を変更することができる。京都大学にあっては、京都大学評議会規程(昭和28年9月29日達示第31号全部改正)及び京都大学評議会内規(昭和44年12月23日評議会決定)により運営される。

部局長会議 京都大学にあっては、部局の長によって構成される会議。評議会と比較すると、部局の長でない評議員が含まれず、評議員ではない学生部長が含まれる。大学の正式な決定機関ではないが、重要な事項がしばしば事実上決定される。さらに非公式な度合いを強めたものとして「部局長懇談会」なるものがある。

学生部員会 京都大学学生部委員会規程(昭和27年4月20日達示第10号制定)によると、学生部長並びに各学部ごとに教授または助教授のうちから学部長の推薦した者1名(教養部は2名)によって構成され(教養部廃止以後は、各学部及び大学院人間・人間環境研究科ごとに1名)、「学生の補導に関する事項を協議処理する」機関。毎年4月と10月に半数ずつ改選される。内規により、三つの小委員会(第一:学生関係/第二:大学院関係/第三:学寮関係)を設けている。

将来計画検討委員会 1984年9月25日、評議会においてその設置及び要項が承認され、同年10月17日に発足した。性格としては「総長の諮問機関」(京都大学将来計画検討委員会要項第1)であり、「二十一世紀を展望した京都大学の在り方及びそれに即した施設の整備について調査審議する」(同第2)ことを任務とする。1985年3月29日に第一次答申(『京大広報』No.290別冊(1985年11月15日)に収録)、1986年12月23日に第三次答申(『京大広報』No.324別冊(1987年1月15日)に収録)、1989年4月20日に「将来計画検討委員会審議報告書」(『京大広報』No.371(1989年5月15日)に収録)をそれぞれ当時の総長に提出。

埋蔵文化財研究センター 「<紹介>埋蔵文化財研究センター」(『京大広報』No.319、1986年10月15日)によると、「本学構内に存在する埋蔵文化財の発掘調査、研究、保存をおこなう組織であって、昭和52年7月に学内措置として設立され」「学内に新しい施設や建物を建設する場合、貴重な埋蔵文化財をそのまま破壊することなく、考古学的な発掘調査を実施し、その研究をおこなうのが当センターの主要な業であ」り、「この業務を遂行するため、学内の建築計画と調整をおこなって発掘計画を立案し、学内組織の京都大学構内遺跡調査会の編成する発掘調査班に当センターの助手を班長・主任として派遣して必要な遺跡調査を実施している」。

《学生自治団体》

全学自治会同学会 学部生の全学自治会。執行部として中央執行委員会。規約上、その構成員は学部学生に限られないが、大学院生は除かれるとされる。現在の規約は、1959年6月1日付で成立したもの。1972年11月29日、全学闘争委員会連合・教養部自治会・文学部自治会・経済学部自治会・教育学部自治会・医学部自治会・薬学部自治会・農学部自治会・熊野寮自治会・吉田寮自治会による独自開催(規約上は中央執行委員長が招集すべきもの)での全学学生大会による執行部罷免・代議員会解散決議を受けて、12月20日に再建を宣言した潮流の流れを汲むものが、その後現在に至るまで大学当局の公認を受けている。おおむね吉田寮自治会と共闘の立場。「赤ヘル」とも呼ばれる。1972年当時の執行部は11月29日の学生大会を無効とし、その後も同学会を名乗り続けた。一時は二重執行部状態が続いたが、1972年当時の執行部を継承する勢力はやがて選挙を成立させることができず「同学会は現在未成立」との立場を取るに至る。連絡先:文学部学友会気付、内線2722

自治会連絡協議会 「同学会は現在未成立」との立場をとる自治会の執行部が、同学会に代わる暫定的な全学自治組織として結成したもの。執行部として事務局。時期によって出入りがあるが、おおむね、教養部自治会・教育学部自治会・法学部自治会・理学部自治会・医学部自治会の各自治会の執行部が参加。

文学部学友会 文学部の自治会。執行部として常任委員会。おおむね同学会・吉田寮自治会と連帯する立場を取り、文学部における有志団体とも協力して、「在寮期限」決定直後、「在寮期限」到来直前、また「在寮期限」終結に際しても、文学部長団交を追求した。1986年1月30日の全学団交実行委員会結成集会に参加。連絡先:内線2722。

教育学部自治会 教育学部の自治会。執行部として自治委員会。おおむね自治会連絡協議会と同一歩調をるが、一時期、P有志せんこはなびが執行部に当選したことも会った。

法学部自治会 法学部の自治会。執行部として常任委員会。ほぼ一貫して自治会連絡協議会と同一歩調。

経済学部同好会 経済学部の自治会。執行部として常任委員会。80年代以降は学内のいずれの勢力からも独立の立場。「在寮期限」到来直前の1986年3月8日、「経済学部長・評議員・学生部長団交」を行い、確約をかちとる。

理学部自治会 理学部の自治会。執行部として評議会。おおむね自治会連絡協議会と同一歩調をとるが、1992年初めに脱退、以後文学部学友会などと共闘。

医学部自治会 医学部の自治会。執行部として常任会。1976年に崩壊。

農学部自治会 農学部の自治会。執行部として常任委員会。1993年の再建以前においてはしばしば「A自A闘」の名前で活動。70年代はおおむね同学会と同一歩調は取っていたものの、同学会のアカヘルメットに対して緑ヘルメットをかぶることからも一定の独自性を有する。1983年3月8日の三里塚芝山連合空港反対同盟の分裂以降は北原派支持を打ち出し同学会と決別。この頃より自治委員会が開かれず。1992年12月16日、農学部11月祭実行委員会・農学部有志会議の呼びかけにより農学部自治会再建準備会が発足、1993年5月21日の自治委員会で再建。

教養部自治会 教養部の自治会。執行部として常任委員会。1972年11月10日、教養部ストライキ実行委員会の独自開催(規約上は委員長が招集すべきもの)による代議員大会において執行部罷免・自治委員会解散が決議され臨時執行部が選出された。一方、1972年当時の執行部は11月10日の代議員大会は無効と主張。その後1993年3月に教養部が廃止されるまで、いずれの勢力によっても正副委員長選挙が成立せず、また大学当局の公認する自治会も存在しなかった。1972年当時の執行部の流れを汲むものは1976年7月2日に自治委員会を独自開催(規約上は委員長が招集すべきもの)し、教養部自治会再建を宣言、1980年1月24日には規約に代わるものとして「当面の行動要領」を自治委員会において制定した。ほぼ一貫して自治会連絡協議会と同一歩調。これを教養部における自治会としては認めない立場からは、「C「自」」などと呼ばれる。吉田寮自治会の方針を一貫して批判。1993年3月をもっての教養部廃止を前に、同年1月28日の自治委員会において「教養部自治会解散アピール」を採択して「これまでの教養部自治会の当面の役割を1・2回生委員会に発展的に継承することを宣言」しようとしたが、定足数に満たず自然消滅した。印刷機・繰越金331120円などの資産の行方は確認されていない。

教養部代議員大会 教養部自治会の最高決議機関。規約上、定例1期1回、自治委員会の決議、全会員の1/10以上の要求により委員長によって招集され、各クラスより5名に1名の割合で選出される代議員(各クラス2名の自治委員は代議員を兼任)の過半数で成立する。1972年の自治会崩壊(代議員大会・自治委員会を招集すべき正副委員長の不在)以後は、しばしば各勢力が独自開催を試み、大会成立が宣言されることもあった。「在寮期限」問題に関して1986年1月31日に教養部闘争委員会によって開催が試みられたが、定足数に満たず成立せず。

院生協議会 院生の学生自治組織

吉田寮自治会 吉田寮における自治会。規約として「吉田寮自治会自治憲章」(現在のものは1965年5月1日制定)。執行部として執行委員会。

熊野寮自治会 熊野寮における自治会。執行部として常任委員会。常任委員会の下に書記局が置かれている。1985年7月半ばより吉田寮自治会執行部を批判、決裂。1987年の5・10弾圧弾劾、1988年のスパイ化弾劾などの際には吉田寮自治会に共闘を提起するも共闘関係の構築はならず、それぞれ独自の立場からの取り組みとなった。

室町寮自治会 大学院生等の寮である室町寮における自治会。疎遠になりがちではあるが、基本的に吉田寮自治会と共闘関係。

女子寮自治会 女子学部学生の寮である女子寮における自治会。執行部として運営委員会。1985年7月4日の「「在寮期限」粉砕!新自治寮獲得!全学集会」では集会へのヘルメットの持ち込みを問題として主催団体から外れて「連帯アピール」を寄せた。1986年度末の女子寮守衛退職・補充要求闘争では吉田寮自治会と共闘。

《学内有志団体・その他》

全学団交実行委員会 「在寮期限」到来を前に、文学部学友会、工学部自治会再建準備会、理学部団交実行委員会’86、法学部団交実行委員会、農学部団交実行委員会、教養部団交実行委員会を構成団体として、1986年1月30日結成(P有志せんこはなびが当日参加)。機関紙(シリーズビラ)として『全学団交通信』(1986年1月30日第1号)、『全学団交実行委員会通信』(1986年8月7日第0号)、『全学団交実通信』(1987年12月第3号)。

「在寮期限」を撤回させる全学実行委員会 「在寮期限」を終結に際し、1989年1月11日結成。1989年2月8日朝尾直弘・文学部評議員、2月15日平野俊二・文学部評議員を追及し、それぞれ確約をかちとる。

全学闘争委員会 京都大学における中核派系の学生組織。連絡先:教養部尚賢館、内線6539。

全学共闘会議 5・10弾圧を契機に、熊野寮自治会の呼びかけにより、熊野寮自治会・農学部自治会農学部闘争委員会・教養部共闘会議・全学闘争委員会を参加団体として、1987年6月7日結成。

文学部団交実行委員会 「在寮期限」到来を前に、1986年2月22日〜23日、文学部団交を行い、確約をかちとる。

文学部に団交を!の会 「在寮期限」終結に際し、1989年1月9日結成。1月13日、23日の2度にわたり文学部東館を封鎖、25日の文学部学友会常任委員会との折衝を実現させる。

P有志せんこはなび 「在寮期限」到来を前に、1986年1月29日、教育学部長団交要求書を提出。1月30日の全学団交実行委員会結成集会に当日飛び入り参加。後、「心理学批判」を展開。一時期、教育学部自治会の執行部である自治委員に当選。連絡先:3091。

教育の帝国主義的再編と斗う法学部学生院生有志 「在寮期限」決定後の1983年の神野学生部長団交において、法手続き論で活躍。「在寮期限」到来を前に、1986年、法学部団交実行委員会を結成。連絡先:内線7944。

法学部団交実行委員会 「在寮期限」到来を前に、1986年1月27日より、法学部長団交要求署名を開始、1月30日の全学団交実行委員会結成集会に参加。連絡先:内線7944。

理学部団交実行委員会 1985年12月16日の北部集会を共催。1986年、「理学部団交実行委員会’86」を名乗り1月30日の全学団交実行委員会結成集会に参加、理学部長団交を追求。連絡先:理学部植物教室生物系4回生控室。

理学部共斗会議 1985年12月16日の北部集会を共催。連絡先:理学部植物教室生物系4回生控室。

帝国主義的再編と斗う理学部院生有志 理学部における有志団体。

医学部動く会 医学部における有志団体。連絡先:内線4495。

工学部自治会再建準備会 1976年度前期工学部自治会常任委員会の不在(工学部自治会崩壊)を受け、1976年10月26日結成。1986年1月10日の全学団交実行委員会結成集会に参加、工学部長団交要求署名を行うが、2月20日時点で署名140〜150、団交断念。連絡先:安全センター内、内線7948。

農学部「在寮期限」に反対する会 「在寮期限」到来を前に、1985年10月下旬結成。1985年12月16日の北部集会を共催。1986年1月下旬、農学部団交実行委員会に発展解消。

農学部団交実行委員会 「在寮期限」を到来を前に、農学部学生大会・農学部長団交を標榜して、「農学部「在寮期限」に反対する会」を中心に結成。1986年1月30日の全学団交実行委員会結成集会に参加。2月14日、農学部学生大会を開催するも不成立。3月7日、農学部長追及で確約をかちとる。連絡先:吉田寮、075-751-4052、内線4052。

教養部代議員大会実行委員会 独自開催による教養部代議員大会が行われるたびに通例結成されるものだが、「在寮期限」到来を前にしては、1986年1月16日結成、1月31日の教養部代議員大会開催を決定。教養部代議員大会は不成立。機関紙『STRIKE!』。連絡先:教養部尚賢館、内線6539。

教養部ストライキ実行委員会 教養部におけるストライキのたびに結成されるものであり、必ずしも連続性のある団体ではないが、「在寮期限」到来を前にしては、「バリスト実」の形で1985年9月10日、10月8日、10月14日にそれぞれバリケードストライキが行われた。

教養部闘争委員会 教養部における中核派系の学生組織。1984年6月結成。連絡先:教養部尚賢館、内線6539。

教養部行動実行委員会 教養部における中核派系の学生組織。1986年秋頃結成。連絡先:教養部尚賢館、内線6539。

教養部共闘会議 教養部における中核派系の学生組織。1987年5月結成。連絡先:教養部尚賢館、内線6539。

教養部団交実行委員会 「在寮期限」到来を前に、教養部長団交を標榜して1986年1月14日結成、30日の全学団交実行委員会結成集会に参加。連絡先:吉田寮、075-751-4052・4055。これとは別に、「在寮期限」決定直後の、1983年1月14日結成のものもある。

吉田寮フレッシュマンプロジェクト 「在寮期限」到来を前に、吉田寮の1回生によって1985年結成。1986年1月、教養部団交実行委員会に発展解消。

わからずや 吉田寮生の有志団体。1988年10月31日に教養部A号館212教室において行われたスライド上映会「今あばかれる管理大学の実態」を主催。

12月祭実行委員会 「在寮期限」終結に際し、教養部長団交及び様々な文化活動を標榜して1988年12月7日結成。1989年2月25日に全学自治会同好会の仲介で教養部長団交を実現、確約をかちとる。連絡先:吉田西寮、075-751-4055、内線4055。

日本民主青年同盟京大地区委員会 日本民主青年同盟の下部組織。機関紙『平和を守れ』。

民主主義学生同盟京大支部委員会 民主主義学生同盟全国委員会の下部組織。機関紙『民主主義の旗』(『デモクラット』と改題)。連絡先:教養部A号館地下。

マルクス主義学生同盟中核派京大支部 マルクス主義学生同盟・中核派の下部組織。1983年5月9日、「脱落派赤ヘルを追撃解体しカクマルの白色テロ粉砕し5 18―5 22へ、全京大生の三里塚総決起かちとれ!」とする《戦闘宣言》を発し、この日をもって「京大制圧」を宣言。機関紙『武装蜂起』。連絡先:京都市下京区寺町通松原上ル京極町497(西田)前進社京都支局。

マルクス主義学生同盟革命的マルクス主義派京大支部 マルクス主義学生同盟・革命的マルクス主義派の下部組織。連絡先:大阪市東淀川区豊新5-6-5(嵯峨)解放社関西支社、06-320-2266。

学生会議 革マル派系の学生組織。各大学に組織されているが、ここでは「京大学生会議」を指す。機関誌『変革の砦』。連絡先:大阪市東淀川区豊新5-6-5(嵯峨)解放社関西支社、06-320-2266。

日本共産主義青年同盟京大班 日本共産主義青年同盟の下部組織。機関紙『マルクス主義』。連絡先:南区西九条島町53山下ビル4F、075-672-2358。

民主化闘争委員会 「在寮期限」到来を前に、5項目要求支持を標榜して1986年1月18日結成。機関紙『民闘委ニュース』。連絡先:教養部A号館地下。

京都大学新聞社 『京都大学新聞』を発行。1925年4月、『京都帝国大学新聞』として創刊。連絡先:西部構内ボックス、075-761-2054/751-2111、内線2571。

京大学生新聞会 『京大学生新聞』を発行。1973年4月創刊。全国学生新聞会連合傘下、原理研究会の学生らが編集。連絡先:京都市左京区郵便局私書箱20号、075-721-7491。

みえる会 1971年より闘争を開始した「京都大学全学臨時職員闘争委員会」(全臨闘)を前身とする職員団体。「怠けず働きすぎず共に支え合う労働者間の黙契を!」をスローガンとする。連絡先:工学部石油教室気付、内線5681。

◇人名編

*五十音順。括弧内は、吉田寮問題に関係がある役職の在任期間。ただし、任免は同一日に発令されることが多いので、本来の任期の翌日に退任したことになっている場合がある。

淺井健次郎 学生部委員会委員(1968年4月1日〜1969年12月20日)。学生部長(1966年12月20日〜1971年9月30日)、71年確約を締結。1982年12月14日の「在寮期限」決定当時の理学部評議員。「正常化」を理由とする「在寮期限」設定に反対、1983年2月5日の理学部長・評議員団交(主催:理学部団交実行委員会)で確約。

赤井浩一 1982年12月14日の「在寮期限」決定当時の工学部評議員。工学部長・評議員(1985年4月1日〜1987年3月31日)。

赤岡功 学生部委員会委員(1985年11月1日〜1986年10月1日)、1986年3月8日の「経済学部長・評議員・学生部委員団交」(主催:経済学部同好会)に出席。

朝尾直弘 学生部長(1985年9月1日〜1986年9月16日)、学生部長名全学公開文書として「吉田寮の在寮期限到来にあたって」(1986年3月)、「吉田寮問題の現状」(1986年9月)。1989年2月8日の評議員追及(主催:「在寮期限」を撤回させる全学実行委員会)で文学部評議員として確約。

池上じゅん 学生部委員会委員(1969年2月16日〜1970年1月10日)。1985年11月29日付の吉田寮自治会による公開質問状当時の経済学部評議員。経済学部長・評議員(1986年1月10日〜1988年1月9日)、1986年3月8日の「経済学長・評議員・学生部委員団交」(主催:経済学部同好会)で確約。

岩井保 学生部委員会委員(1973年10月1日〜1974年10月1日)。1985年11月29日付の吉田寮自治会による公開質問状当時の農学部評議員。農学部長・評議員(1987年5月1日〜90年3月31日)、5・10弾圧の際の当局者。学生部長(1991年4月〜1992年7月16日)。

梅田勝 「在寮期限」到来当時、衆議院議員(共産党)。1986年3月6日、衆議院予算委員会第一分科会において京都大学の寮問題において京都大学の寮問題に関して会計検査院・文部省に質問。1986年の総選挙において最下位当選者に61票差で落選。

大谷晋一 学生部委員会委員(1988年10月1日〜1989年10月1日)

大谷隆一 学生部委員会委員(1988年4月1日〜1989年4月1日)、学生部委員会第3小委員会委員長(1988年10月1日〜1989年4月1日)

大西俊一 学生部委員会委員(1974年4月1日〜1975年4月1日)。1989年1月12日の評議員追及(主催:全学自治会同好会)で理学部評議員として確約。

岡照雄 文学部長・評議員(1988年4月1日〜1990年3月31日)、1989年1月17日の文学部長団交(主催:文学部学友会・文学部に団交を!の会)で確約。

岡道男 1986年2月22日―23日の文学部長団交に文学部評議員として同席し、文学部長がドクターストップにより退席後は文学部長代行として確約。

岡本朴 原子炉実験所長・評議員(1983年4月2日〜1989年4月1日)、1988年10月31日付の評議員に対する「公開質問状」(吉田寮自治会)に回答。

岡本道雄 学生部長(1968年4月16日〜1969年4月15日)。第19代総長(1973年12月16日〜1979年12月15日)。臨時教育審議会会長(1984年8月21日〜1987年8月20日)。

奥田光郎 学生部委員会委員(1974年4月1日〜1974年10月1日)。教養部長・評議員(1985年4月1日〜1986年3月31日)。1985年11月29日付の評議員に対する「公開質問状」(吉田寮自治会)に回答。

加藤幹太 学生部長(1984年4月1日〜1985年9月1日)、吉田寮自治会の要求書に対して吉田寮自治会委員長宛当局送付文書として1985年1月14日及び同年7月9日に回答、学生部長名全学公開文書として「本学の学寮問題について」(1985年8月)。

河合隼雄 教育学部長・評議員(1980年4月1日〜1983年3月31日)。1982年12月14日の「在寮期限」決定当時の教育学部評議員。学生部長(1987年12月7日〜1989年4月1日)、学生部長名全学公開文書として「吉田寮問題について」(1989年2月)。

川出由己 ウイルス研究所長・評議員(1985年5月1日〜1987年4月30日)、1985年11月29日付の評議員に対する「公開質問状」(吉田寮自治会)に回答。

川崎清 学生部委員会委員(1986年4月1日〜1987年4月1日)。1988年12月、建築専門家として「吉田寮東寮の建築耐用性に関する所見」

川島良治 学生部委員会委員(1974年10月1日〜1975年10月1日)。1982年12月14日の「在寮期限」決定当時の農学部評議委員。農学部長・評議員(1985年5月1日〜1987年4月30日)。1986年3月7日の農学部長追及(主催:農学部団交実行委員会)で確約。

川又良也 学生部委員会委員(1970年2月16日〜1970年4月1日)。学生部長(1971年10月1日〜1973年1月15日)。法学部長・評議員(1987年4月1日〜1989年3月31日)。

菊池光造 学生部委員会員(1984年7月10日〜1985年10月1日)、1985年5月8日の学生部委員追及で確約。

木村雅昭 学生部員会委員(1985年4月1日〜1986年4月1日)

北川善太郎 学生部委員会委員(1977年4月1日〜1978年4月1日)。学生部長(1981年10月16日〜1982年10月15日)、学生部長名全学公開文書として「本学の学寮問題について」(1982年9月)。1985年11月29日付の吉田寮自治会による公開質問状当時の法学部評議員。法学部長・評議員(1989年4月1日〜1991年3月31日)。

高坂正顕 1900.1.23〜1969.12.9。哲学者。西田幾多郎に師事、1940年京都帝国大学教授、「京都学派」の一員として活躍、1943年『近代の超克』に参加、1946年公職追放。復帰後、京都大学教育学部長などを歴任。第6次〜第8次(1963年5月〜1969年6月)の中央教育審議会委員。死後、勲一等瑞宝章。

児嶋眞平 学生部委員会委員(1986年10月1日〜1987年10月1日)、学生部委員会第3小委員会委員長(1987年4月1日〜1987年10月1日)。教養部学生生活連絡委員会・同委員長(1988年9月1日〜1989年8月31日)、教養部長団交を求める12月祭実行委員会と折衝。

佐藤俊 工学部長・評議員(1981年4月1日〜83年3月1日)、1983年2月7日の工学部長追及(主催:工学部自治会再建準備会・管理強化に反対する工学部有志)で態度表明を行う。

佐野哲郎 学生部委員会委員(1982年4月1日〜1983年4月1日)。1985年11月29日付の評議員に対する「公開質問状」(吉田寮自治会)に教養部評議員として回答。教養部長・評議員(1986年4月1日〜1988年3月31日)、学生部長(1989年4月1日〜1991年3月30日)。学生部長名全学公開文書として「熊野寮問題について」(1991年3月25日)。

沢田敏男 学生部長(1978年4月22日〜1979年8月1日)、団交―確約体制を破棄。第20代総長(1979年12月16日〜1985年12月15日)、「在寮期限」を決定。

島田信夫 数理解析研究所・評議員(1985年1月31日〜1987年1月30日)、1985年11月29日付の評議員に対する「公開質問状」(吉田寮自治会)に回答。

神野博 学生部委員会委員(1977年4月1日〜1978年4月1日)。学生部長(1982年10月16日〜1984年3月31日)、学生部長名全学公開文書として「学寮問題について全学の皆さんにうったえる」(1982年12月)、「学寮問題についての最近の経過」(『京大広報』No.250(1983年3月15日))、「学寮問題について―その後の経過―」(1983年12月)。1985年11月29日付の吉田寮自治会による公開質問状当時の工学部評議員。工学部長・評議員(1987年4月1日〜1989年3月31日)。

鈴木成高 1907.3.11〜1988.3.7。歴史学者(西洋史)。1942年京都帝国大学助教授、1943年『近代の超克』に参加、1947年公職追放。後、早稲田大学教授。1962年〜71年、文部省大学設置審議会専門委員。1970年「世界の中の日本」(講演)。

住友則彦 学生部委員会委員(1987年10月1日〜1988年10月1日)、学生部委員会第3小委員会委員長(1987年10月1日〜1988年10月1日)、1988年8月4日、吉田西寮Ⅳ棟取り壊しに際して確約。

武内章 学生部委員会委員(1984年10月1日〜1985年10月1日)、学生部委員会第3小委員会委員長(1985年4月1日〜1985年10月1日)、寮小委委員長追放で3度にわたり確約(1985年5月4日、7月18日、7月30日)。

巽友正 学生部長(1977年4月22日〜1978年4月21日)、理学部長・評議員(1983年4月1日〜1985年6月31日)。

竺沙雅章 学生部委員会委員(1985年10月1日〜1986年10月1日)、1986年2月20日の学生部委員追及(主催:文学部団交実行委員会)で確約。

寺本英 理学部長・評議員(1985年4月1日〜1987年3月31日)、1985年11月29日付の評議員に対する「公開質問状」(吉田寮自治会)に回答。

筧田知義 学生部長(1986年9月12日〜1987年12月7日)。

西島安則 学生部委員会委員(1974年4月1日〜1975年4月1日)。学生部長(1975年7月1日〜1976年8月16日)。第21総長(1985年12月16日〜1991年12月15日)、総長名全学公開文書として「吉田寮在寮期限設定に伴う一連の措置の完了について(所感)」(1989年7月7日)。

西村孟 学生部委員会委員(1974年10月1日〜1975年4月1日)、1983年2月3日の教養部長団交(主催:教養部団交実行委員会)に教養部評議員として同席、教養部長と共に確約に連署。

西村博行 学生部委員会委員(1975年10月1日〜1986年10月1日)

新田博衛 学生部委員会委員(1978年10月1日〜1979年10月1日)、教養部長・評議員(1988年4月1日〜1990年3月31日)、1989年2月25日の教養部長団交(主催:12月祭実行委員会)で全学自治会同学会宛で確約。

服部正明 文学部長・評議員(1983年1月16日〜1985年1月15日)、1983年1月25日、2月4日の文学部長団交(主催:文学部学友会)で確約。

濱田啓介 教養部学生生活連絡委員会副委員長(1985年9月1日〜1986年2月28日)、教養部団交実行委員会の教養部長団交要求に対して1986年2月5日、「浜田は論理的根拠なくして団交要求を拒否した」との証言。

平野俊二 学生部委員会委員(1984年10月1日〜1985年10月1日)。1989年2月15日の評議員追及(主催:「在寮期限」を撤回させる全学実行委員会)で文学部評議員として確約。

深海浩 農学部長・評議員(1981年5月1日〜1983年4月30日)、1983年2月25日の農学部長団交(主催:農学部自治会農学部闘争委員会)で確約。

福島慎一郎 1960年10月8日―1986年1月20日。1979年、京都大学教育学部入学。1981年、第31期熊野寮自治会委員長。1982年4月、マルクス主義学生同盟中核派に加盟。1986年1月16日、全学連(鎌田雅志委員長)中央委員会において全学連副委員長代行。1986年1月20日、教養部A号館において情宣中、革マル派によって殺害。

藤原元始 学生部委員会委員(1970年10月1日〜1971年10月1日/1978年10月1日〜1980年8月1日)。学生部長(1980年8月1日〜1981年10月16日)、学生部長名全学公開文書として「吉田寮熊野寮の現状と問題」(『京大広報』No.210(1981年2月15日))、「吉田寮熊野寮に関するその後の経過」(『京大広報』No.221(1981年10月1日))。

本田實信 文学部長・評議員(1985年1月16日〜1986年3月31日)、1986年2月22―23日の文学部長団交(主催:文学部団交実行委員会)で22日午後8時、ドクターストップにより岡道男・文学部評議員を学部長代行に任命。

牧山等 1988年11月10日の学生部厚生課長追及(主催:熊野寮自治会)で確約、11月14日、河合隼雄・学生部長により破棄。

万波通彦 学生部委員会委員(1985年4月1日〜1986年4月1日)、学生部委員会第3小委員会委員長(1985年10月1日〜1986年4月1日)。学生部長(1992年7月16日〜)。

水津一朗 文学部長・評議員(1981年1月16日〜1983年1月15日)、1983年1月25日の文学部長団交(主催:文学部学友会)で「在寮期限」決定当時の文学部長として自己批判。

翠川修 学生部長(1979年8月1日〜1980年8月1日)、吉田寮・熊野寮生宛当局送付文書として「学寮における当面の諸問題に関する学生部の基本的な方針について」(1980年1月10日、『京大広報』No.190(1980年2月1日)に掲載)。1982年12月14日の「在寮期限」決定当時の医学部評議員。

本山美彦 学生部委員会委員(1988年10月1日〜1989年10月1日)、学生部委員会第3小委員会委員長(1989年4月1日〜1989年10月1日)。

森毅 学生部委員会委員(1976年4月1日〜1976年10月1日)。1985年11月29日付の評議員に対する「公開質問状」(吉田寮自治会)に教養部評議員として回答。

柳田聖山 人文科学研究所長・評議員(1985年4月1日〜1986年3月31日)、1985年11月29日付の評議員に対する「公開質問状」(吉田寮自治会)に回答。

山口昌哉 学生部委員会委員(1969年12月20日〜1970年4月1日/1973年4月1日〜1974年4月1日)。理学部長・評議員(1981年4月1日〜1983年3月31日)、1983年2月5日の理学長・評議員団交(主催:理学部団交実行委員会)で確約。

渡邊實 教養部長・評議委員(1982年4月1日〜1983年3月31日)、1983年2月3日、2月10日の教養部長団交(主催:教養部団交実行委員会)で確約