編集後記

吉田寮自治会文化部情報局長 山本英司

1992年3月、私は初めて文化部室に足を踏みいれた。そこは元々委員会室だった所で、1989年に西寮が取り壊されて別の場所に委員会室が移転してからは資料部屋と呼ばれていた。そこには自治会関係の過去の資料がいくつかファイルに整理して収められていたほか、寮生が退寮する際に残していったであろう膨大な未整理の資料の山が堆く積まれていた。そして寮生数の増加に伴い、一般居室の一室に置かれていた文化部室が移転してくることになり、文化部室と呼ばれるようになったのである。私がそこに足を踏みいれたのは、吉田寮自治会の執行委員会の一人として、4月に入寮してくる新入寮生を対象に行う入寮オリエンテーションのためのパンフレット(通称オリテ資料)執筆のためであった。

資料の山との格闘を経て、少なくとも私の担当箇所については、これまでにない充実したオリテ資料が執筆できたものと自負している。しかしながら、まだまだ未解明のことが多く、何よりも、未整理の資料の山を見捨ててはおけなかった。そこで私は、文化部情報局に入局し、これまでほとんど組織的活動がなされていなかったところ、一から組織を作るつもりで情報局の体制を整え、資料整理に邁進した。やがて私は情報局長に就任した。

資料整理の仕事は実に興味深く、勉強になった。私は1988年入学・入寮であり、いわゆる「在寮期限」の下での最後の世代である。「在寮期限」に関して当事者であったのは1年に過ぎない。もちろん「在寮期限」に関しては、その歴史的経緯も含め、折に触れ寮内で知る機会があったが、それらは寮の先輩のフィルターのかかった2次資料からであった。その先輩にしても、別に悪気があってフィルターをかけたのではなく、これまで受け継がれてきたことをそのまま踏襲していっただけなのだろう。しかしながら、1次資料を整理しながら目を通すことによって、実に様々なことを知り得たのである。そうこうするうち、個々の体験については当事者に及ばないが、通史としての寮闘争の歴史に関しては私が寮内で最も詳しくなるに至った。1992年秋の学生部長団交で私が司会を務めたのも、それが評価されてのことだったのだろう。

そうなると、資料整理の成果を何らかの形で公けにしたい、と潜在的に思っていたのだろう、1992年の半ば、文化部新聞局で吉田寮新聞増刊号の第2集を出すという話を耳にしたとき、是非協力させてくれるよう申し入れた。

「在寮期限」が終結した直後の1989年4月25日付で「特集:寮自治を考えるために」と題された『吉田寮新聞』第43号が発行されていた。これには、「85年度前期吉田寮自治会全体方針案」、「吉田寮の90年」、「団交確約集(1962〜1977)」、「吉田寮自治会自治憲章」が収録されていた。これは、「文化部ワープロ講座」と称して、受講生に入力用テキストとして入力させたものを編集したものだった。この増刊号の編集者によると、現在もワープロ講座は行われており、引き続き増刊号を出すつもりであるとのことだった。そこで、入力すべき文献を情報局が提供していったらよいと考えたのである。

1992年7月8日の寮生大会で可決された1992年前期文化部情報局方針には、「以前、新聞局で寮自治を考えるための『吉田寮新聞』増刊号」を発行したことがあったが(85年度前期方針・団交確約集・吉田寮略史等を収録)、今後、情報局としても、寮自治に関するまとまった資料集を自治会で発行するのに協力していきたい」との表現が盛り込まれている。明記されてはいないが、当然ここでは、新聞局が協力先として想定されていた。

だが、入力用のテキストの候補は次々と挙がってくるのに対し、肝心のワープロ講座の進行状況は全く遅々たるものであった。情報局が提供しようと思っていた文献はおろか、結果的に、最初に想定されていた文献すら、最後まで入力されることはなかった。そのとき、文化部意匠局に属する私の友人がワープロ講座の講師と版下作成を引き受けると言い出した。そこで、改めて受講生を広く募ることとし、ここに、自前で資料集を編集することを決意したのである。1992年10月のことであった。

だが、当初はそれでも、『吉田寮新聞』の増刊号の第2集として出すことを想定していた。我々は新聞局員ではなかったが、内容的にも前回のものを引き継ぐものであり、また『吉田寮新聞』にも権威というものがあった。

しかし、『吉田寮新聞』の当時の事実上の発行責任者から、その企画を新聞局で引き受けるつもりはないと言われてしまう。その理由は明言されたわけではないが、察するに、一切負担はかけない、実務は全てこちらでやるからと申し出たところ、かえって、自分が全く関わらないところでさくせいされたものに『吉田寮新聞』の名前だけ使われるというありかたに納得がいかなかったのだろう。

結局、意匠局の協力の下、情報局として編集と寮生への発行を行い、寮外へは有志団体を通して独立採算制で頒布するとの方針を立てた。また、「吉田寮新聞」とは全く別個でもあることから、かつての増刊号に収録された文献も重複して収録することとした。そこで、1993年1月15日、自治会の合意形成機関であるところの総会に、「93年6月を目処にいよいよ資料集を発行したい」という表現を含む1992年度後期文化部情報局方針並びに「資料集公刊委員会(準)」名での「吉田寮資料集頒布の提起」を提出したのである。

だが、これらの提起は一部寮生の批判にさらされた。まず、情報局の方針案に対して、完成した資料集を全寮生に配布するとあったが、自分はそんなものを読みたいとは思わない、金と紙の無駄である。次に、有志の行動提起に対して、第1に、そもそも有志が自治会の機関(情報局)を利用して出版活動を行ってよいのか、第2に、自治会の内部文書も収録文献に含まれていることに鑑み、それを寮外に公開してもよいものか、資料集の現物が出来てからでないと判断できない。以上の批判がなされた。

これに対し、1月20日の総会で、再提起を行った。まず情報局としては、全寮生に配布することを撤回した。次に、有志としては、前述の第1の論点に対しては、決して営利事業ではないこと、第2の論点に対しては、収録文献リストは既に堤出してあるのでそれで判断してもらいたいことを述べて理解を訴えた。これに対し、北寮及び南寮においてはおおむね理解が得られた。ただし、収録文献の中に中核派と革マル派のものが含まれていることから、党派間の対立に自分が巻き込まれたくないとの懸念が強く主張されたため、資料集の発行は、寮生全員が構成員でありその活動には全寮生が責任を負うところの吉田寮自治会としての活動ではなく、山本英司が代表であるところの有志団体の活動であることを内外にはっきりさせること、収録文献の発行元には事前に問い合わせること、が確認された。また、「資料集公刊委員会」との名称は吉田寮自治会の特別委員会であるとの印象を与えかねないとの指摘もなされた。一方、中寮においては、自治会の内部文書についてそれを寮外に公開してもよいか否かを判断する作業自体が面倒であるとして保留となった。

1月24日の総会において、有志団体より3度目の提起がなされた。それは、前回の中寮総会の姿勢は話し合い拒否でありまさに自治破壊であると批判したうえで、改めて理解を訴えるものであった。これにより、資料集発行についての全寮的な合意が得られることとなった。なお、資料集の編集を含む1992年後期文化部情報局方針は、1月25ー26日の寮生大会において可決された。

さて、自治会内部文書の公表の可否の検討については、誰か一人でも具体的に問題点を指摘する者がいれば議論を行い、その結果、誰か一人でも納得しない者がいればその箇所については公表を行わない、とされていた。3月30日の総会において、このような異議申し立てを4月10日をもって締め切るとの提起が「資料集を公刊する会」よりなされ、合意された。そして4月10日を過ぎても、異議申し立ては一切なされなかった。

ところで、1992年度後期文化部情報局方針において資料集の発行が6月を目処とされたのは、例年5月に行われる寮祭を念頭に置いてのことであった。例年、寮祭の前には吉田寮OBに対してカンパの要請が行われるので、それに便乗して資料集の案内を同封させてもらおうと思ったのである。この他、寮祭実行委員会より全国の自治寮に寮祭へのアピールを要請する際にも便乗させてもらい、寮祭参加企画として寮祭パンフレットにも案内を掲載してもらった。また、新聞局には『吉田寮新聞』購読者に案内を送ってもらい、「資料集を公刊する会」としても収録文献の発行者を含む寮問題の関係者に案内を送付した。ちなみに、案内には収録文献リストが掲載されているので、案内の発送をもって収録文献の発行者への問い合わせに代え、そのような案内の送付にかかわらず何も言ってこないことをもって資料集への収録に対する承認と見なすこととした。その上で、中核派と革マル派に関しては特に慎重を期して収録予定文献のコピーを同封して意見を求めた。結果的にはどこからも異議は寄せられなかった。その他、『京都大学新聞』第2106号(1993年5月1日)、5月9日の『京都新聞』、京都大学生協の発行する情報誌『Press Infox』第3号(5月17日)、5月27日の『朝日新聞』京都地方版にも資料集の発行が取り上げられた。

ここで編集方針をめぐる問題に触れておきたい。編集方針の根幹にあったのは、「客観性」であった。言い換えると、「在寮期限」をめぐる内外の動向の範囲を忠実に再現することであった。

具体的には、収録文献の選定については、以下の方針を採用した。

  1. 当事者である吉田寮自治会については、膨大な文献があるので、原則として、各期の方針(案)及び総括(案)をもって代表させる。ただし、大学当局との文書によるやりとり(要求書、公開質問状など)は全て収録する。その他、重要なビラ・パンフレットも必要に応じて収録する。
  2. もう一方の当事者である大学当局については、判明する限りすべて収録する。ただし、在寮者確認・退寮者勧告など、定型化したものは原則としていちいち収録することはしない。
  3. 寮問題に関与したその他の団体については、1団体につき少なくとも1文献は収録することを原則とする。その際、当該団体の寮問題に対する主張・見解が浮き彫りになるような文献を収録するよう心掛ける。また、学生自治団体の正規の機関の決議(案)は判明する限りすべて収録する。

以上の方針は、寮問題に対する主張・見解に片寄ったものであった。当初は、収録文献をもって事実関係の流れが十分把握できるような収録方針を考えたが、それでは収録文献が膨大になり過ぎる。そこで、事実関係の流れについては巻末に付す年表をもって代えることとし、また、詳細な解題・注釈を付けることとした。なお、注釈においては、収録文献に事実関係の記述や引用の誤りが見られる場合、それに対する訂正も判明する限り行ったが、逆に注釈を付けていない箇所の記述や引用の正しさを保証したものと受け取られることを恐れる。

こうした編集方針については、何人かの元寮生より批判を頂いた。その主要な批判点は、そのような「客観的」な編集方針は評論家的であり、運動の継承につながらない、というものであった。だが、これから運動を構築するためにこそ、その判断材料となるべき資料を提供するのが今回の資料集の役割であると考えるので、どうかご理解いただきたい。なお、大秦景教氏からは『吉田寮新聞』宛に投稿「「管理強化反対」から「再編との対決」へ―同時代史としての『吉田寮資料集』刊行によせて―」が寄せられ、当時『吉田寮新聞』は休刊中であったため、本人の了承の下、情報局で引き取り、『情報局月報号外』の第2号(1993年7月5日)として発行した。

文献の収録方法については、終始激しい議論が行われた。それは、原資料の忠実な再現と、読みやすい統一的な書式との間の矛盾をどう調和させるかという問題に帰着する。極論すれば、前者の立場からすると、原資料を写真製版したものをそのまま印刷すればよい。後者の立場からすると、誤字・脱字は校訂し、送り仮名・数字の表記・句読点も統一し、意味のとおらない表現も適当に修訂すればよい。

結局のところ、本書の凡例に見られるような形に落ち着いたが、これに従うとしても苦悩するところがしばしば見られた。改行の際に字下げがなされていない文書において行の末尾で1つの文が終わっている場合、そこで改行がなされているのか否か。ワープロで書かれた文献において、行の末尾で1つの文が終わる形で段落が終わっており次の段落との間に1行空いている場合、それは意図して1行空けたものか、それともワープロの都合で改行記号に禁則処理が働かなかったせいに過ぎないのか。ある1行字数にしたがって作られた文書にどこまで発行者の意図を見出すか(例えば、センタリングなのかある一定の文字数だけ下げたものなのか)。原資料において字下げ(インデント)に乱れが見られる場合、1行字数が異なる資料集においてそれをどう表現するか、あるいはしないのか。どれがメイン・タイトルであり、どれがサブ・タイトルであり、どれがスローガンであるのか。……おそらく、当時の発行者に尋ねても必ずしも要領を得ないことが多いであろうか、もしも指摘がなされたら、正誤表を作成するなど誠実な対応をする所存である。

こうした編集方針をめぐる議論は、「資料集を公刊する会」の性格の変更をもたらした。「会」とは言ううものの、その実態は、私と、ワープロ講座講師・版下作成、索引作成担当(以下、レイアウト担当者と記す)の2人の共同編集であり、その他、情報局員で比較的熱心に手伝ってくれる者が1人いるのみであった。その他、ワープロ講座の受講生として入力に参加してくれた者が約10名、解題・注釈を行ったものが私を含め3名であった。なお、解題・注釈について補足すると、最終的な推敲は私が行ったのであり、その記述の全責任は私にあることを明言しておく。

1993年5月、レイアウト担当者が、資料集の仕事から降りる、と言い出した。既に文献の入力はほぼ完了しており、解題・注釈も目処がついた段階であった。彼が言うには、資料集の発行に対する情熱からしても、またこれまでの山本の言動から判断しても、資料集の発行は自分と山本との共同事業ではなく、山本の事業であると自分はこれまで見なしてきた。その上で、レイアウトに自己実現の喜びを見出しては自分はこれまで山本の事業を手伝ってきた(彼の主張によると、それ以前になされた資料集の印刷方法についての議論の時点において、彼は既に「資料集を公刊する会」の構成員ではなくなっていた)。それなのに、自分の担当であるはずのレイアウトの分野にも口を出され、見解の一致のために議論を強いられるのはたまらない、と言うのであった。私としては、あくまでも彼を共同編集者と見なしてきたのであったが、話し合いの結果、今後は、「資料集を公刊する会」の全責任は私一人が負い、レイアウト及び索引の分野に関してのみ、最終的な決定権を彼に委ねるということで一致した。

だが、それからおよそ4ヶ月にわたり、レイアウト担当者はほとんど作業しなかった。やらないと言っているわけではない、今やる気がおきないだけだ、それには理由はない、単にやる気がおきないだけである、というのが彼の主張であった。レイアウトに関する最終的な決定権が彼にあり、かつ、いつまでに仕上げるないし1日何時間は作業をするという明示的な契約を交わしていない以上、その主張に理由がなくはなかった。資料集の予約申し込みの案内には「6月下旬から7月上旬」に発行する旨が書かれていたが、その文責は「資料集を公刊する会」すなわち私にあり、彼の預かり知るところではない、ということにもなる。私自身としては以上の論理には賛成しかねたが、ともあれ、「資料集を公刊する会」としては、6月21日付で予約申し込み者に対し、発行の遅延を詫びる旨の手紙を発送した。

9月下旬からおよそ1ヶ月の間、レイアウト担当者は猛然と作業に邁進した。しかし10月24日を最後に、ふつりと作業を中断してしまう。おそらく一時の気の迷いかそれとも私を困らせてやろうと思って発した言葉であろうが、来年の9月までコンパに出る暇もないほど忙しいと言う。そこで、「資料集を公刊する会」として、10月28日付で改めて予約申し込み者に対し、発行の遅延を詫びる旨の手紙を発送した。この時点において私は、もはや彼には頼らず、自分一人で完成させる腹を固めていた。1994年1月10日が私の修士論文の提出期限であるので、それから作業するとして、最悪の場合でも2月には発行するとの計画を内心立てたのであった。

しかしながら、11月中旬、話し合いの結果、年内に版下を完成させるとの新たな契約が成立した。レイアウト担当者は猛然と作業に邁進し、年内完成には間に合わなかったものの、その労働密度は労働基準法の定める最高労働時間を上回る程であった。

結局、1993年6月下旬〜7月上旬の発行予定が1994年2月1日付の発行となってしまった。しかも、都合により索引も省略されることとなった。早くから予約の申し込みをしていただいた方々並びに索引を楽しみにされたいた方々には幾重にもお詫び申し上げる次第である。

しかしながら、発行の遅れは、レイアウトの質の保障のみならず、内容の充実にもつながったことを申し添えておきたい。この間にも資料の発掘が相次ぎ、収録文献も増え、注釈も充実した。また、注釈のため寮生大会議事録の閲覧を1992年度後期議長に申し入れたところ昔のもは残っていないと言われたことがあったが、私が1993年度前期議長に就任して自ら資料を調べてみた結果、本資料集の対象時期についてはその大部分を確認することができたということもあった。

財政上の問題にも触れておきたい。本資料集は、1冊1000円以上のカンパということで予約が募られた。これは、『吉田寮新聞』増刊号(72頁、コピー印刷)が500円以上5000円以内のカンパであったことにちなんで、気軽に出せる額ということで決定されたものであり、費用計算に基づくものではなかった。そもそも、印刷方法も決まっていなかった。

印刷方法としては、寮内にある孔版印刷機(リソグラフ)、コピー機、オフセット印刷が選択肢として考えられた。リソグラフを使えば、ほとんど紙代だけで、極めて安価に製作できることが明瞭であった。なお、製本は大学にある製本器械でこれまた表紙の紙代だけで可能であった。しかし、印刷の制度に難点があった。コピー機に関しては、当時、3円コピーなる業者が近くにあり、郵送料を負担しなくて済む寮生及び学内関係者の予約申し込み者に占める比率がある程度に達すればギリギリで1冊1000円でやっていけるものと思われた。オフセット印刷は大きな賭けであり、発行部数が多ければ多いほど1冊あたりの単価も安くなるが、発行部数に関わらない固定費用が大きいので採算がとれるだけの発行部数を確保することは至難の業であった。

予約申し込みを募った時点では、3円コピー・自主製本でやることとし、ほとんどありえないことではあるが、予約が1000部近くに達することがあればオフセット印刷にするつもりであった。結果は、予約部数約130、カンパは1部1000円以上が多数寄せられたので約20万円と、3円コピーにほぼ決定した。しかし、その後、3円コピーは1枚4円に値上がりし、しかも、実際に別の文献をコピーして確かめてみたところ、読むには不自由ないが人様にお出しするものとしてはかなり劣悪な品位であることが判明した。それに、1枚4円ではどうやら赤字なのである。また、私事ではあるが、私の修士論文の提出期限が迫るにつれて、コピー・自主製本を行う気力がもはや無かった。また、ここまで発行を遅らせてしまったお詫びの気持ちも込めて、オフセット印刷を採用する決意を固めるに至った。数十万円の赤字であるが、やむを得ないこととあきらめた。

しかしながら、その後、レイアウト担当者にやる気を出してもらうため時給1000円を支給することとなり、かつ、実際にレイアウトしてみると予想以上に頁数が増えたため、オフセット印刷を採用すると赤字が100万円近くにも達することが明らかとなった。そして、寮内に新しいリソグラフの印刷機が導入され、4円コピー以上の品位が可能となった。かつまた、当初は思いもよらないことであったが、私は修士論文を堤出してしまい、時間的余裕が生まれた。一方、版下完成の目処がついたのは1994年1月中旬のことであるが、印刷業者に頼むと1ヶ月はかかるとのことであり、もはやこれ以上の遅延は許されないと思い至った。そこで、リソグラフで印刷し、表紙の印刷と製本だけは業者に任せることにしたのである。

これでも約40万円の赤字であるため、本資料集の在庫については頒価3000円として少しでも回収を図ることとした。むろん、「カンパ1000円以上」とのお願いに応えて予約して下さった方々に遡及して適用されることはない。

最後に、今後のことについて触れたい。本資料集は「在寮期限」問題に関する資料集の後半部分として編集・発行されるものであり、前半部分が引き続いて編集・発行される。1993年7月17日―18日の寮生大会において可決された1993年前期情報局方針においては、第2集(前半部分)が1994年夏、そして第3集(別冊)が1995年夏発行と予定されていた。しかしながら、後半部分がこのような発行状況であるので、前半部分の1994年夏発行は不可能である。後半部分の発行にしても、約束違反という点では弁解の余地はないが、数ヶ月もの間、学業を一切離れ、労働基準法の定める最高労働時間をも上回る密度での作業を強いられたのであり、学生の本分を尽くすためには今後はもう少しゆっくりと作業を進めていきたい。そこで、前半部分の発行は早くとも1995年夏とさせていただきたい。こちらで住所を把握している読者の方々には、発行の目処がつき次第、案内を遅らせていただく予定である。

前半部分においては、1978年の沢田学生部長の登場―1979年の会計検査院による不正常指摘―12・15弾圧―廃寮化攻撃の切迫―1982年の「在寮期限」決定―全学団交戦―1983年の5・18弾圧―1984年の負担区分の受け入れ、といった過程を明らかにしていきたい。そこでお願いであるが、この時期における寮問題に関する資料や、解題・注釈において参考となる情報をお持ちの方は是非吉田寮自治会文化部情報局までお寄せいただきたい。また今回の後半部分の資料集を読んで気が付いたことがあれば、是非指摘していただきたい。資料集を充実させるため、ご協力をお願いする次第です。